洞雲寺(草野正辰の墓)
草野正辰の墓がある寺院。草野正辰は『報徳記』にも登場する。
草野正辰の墓は、本堂に向いて左手に見える墓地から細い坂道を登り、しばらく進んだところにある。

洞雲寺
周辺
標柱

標柱
顕彰 二宮仕法功労者 草野正辰之墓
人は天地のありとあらゆるもの、と 先祖のお陰でこの世に生きている、
これに報いることが報徳であり人の道である。
報徳の訓えに心をはげまし、豊かな相馬をきずこう
人は天地のありとあらゆるもの、と 先祖のお陰でこの世に生きている、
これに報いることが報徳であり人の道である。
報徳の訓えに心をはげまし、豊かな相馬をきずこう
草野正辰の墓の解説

解説
二宮仕法の功労者 草野正辰
相馬に二宮仕法を取り入れるにあたって、もっとも骨を折ったのは、当時の国家老池田胤直と共に江戸家老の草野正辰であった。
正辰は通称を半右衛門といい、武田流軍学の家に生れた。
天明、天保の飢饉の後を受けて、藩主益胤は復興に努力中であったが、なかなか実績をあげるまでにいたらなかった。さいわいに江戸在勤の正辰は、若い富田高慶からその師二宮尊徳のことを聞いて、はじめて二宮に会ったのは天保十三年であった。初対面であったにもかかわらず、二宮の興国安民の法を聞いてすっかり感激した正辰は、早速藩主充胤に建言し、同時に池田と連絡をとって実施計画をたてた。はじめ反対の多かった藩の空気も、池田らの説得が効[1]を奏し、弘化二年十二月仕法開始となったのである。
尊徳も相馬のために喜んで「草野家老はかねて聞いていた通り、内誠直にして外温和に、度量ひろく識見人にぬきん出ている。この人が相馬にあるかぎり相馬の仕法の成功は疑いない」とほめている。惜しいことに仕法開始後二年、弘化四年十月、七十六歳で江戸に歿し、中村の洞雲寺(もと長松寺)に葬られた。
正辰は聞二とも号し、俳句をよくした。辞世の句に……行く秋と追いかけくらや三途川……
相馬に二宮仕法を取り入れるにあたって、もっとも骨を折ったのは、当時の国家老池田胤直と共に江戸家老の草野正辰であった。
正辰は通称を半右衛門といい、武田流軍学の家に生れた。
天明、天保の飢饉の後を受けて、藩主益胤は復興に努力中であったが、なかなか実績をあげるまでにいたらなかった。さいわいに江戸在勤の正辰は、若い富田高慶からその師二宮尊徳のことを聞いて、はじめて二宮に会ったのは天保十三年であった。初対面であったにもかかわらず、二宮の興国安民の法を聞いてすっかり感激した正辰は、早速藩主充胤に建言し、同時に池田と連絡をとって実施計画をたてた。はじめ反対の多かった藩の空気も、池田らの説得が効[1]を奏し、弘化二年十二月仕法開始となったのである。
尊徳も相馬のために喜んで「草野家老はかねて聞いていた通り、内誠直にして外温和に、度量ひろく識見人にぬきん出ている。この人が相馬にあるかぎり相馬の仕法の成功は疑いない」とほめている。惜しいことに仕法開始後二年、弘化四年十月、七十六歳で江戸に歿し、中村の洞雲寺(もと長松寺)に葬られた。
正辰は聞二とも号し、俳句をよくした。辞世の句に……行く秋と追いかけくらや三途川……