報徳堀(小芝原)
二宮金次郎の指示に従い、村人が掘ったとされる堀の跡地。

報徳堀の碑
二宮尊徳先生記念之堀
当耕地ハ小芝原ト称シ旧来常ニ過湿ニ因リ其収穫ハ僅ニ貢租ニ充ツルノミ先生之ガ救済ノ為天保十年冬十月排水ヲ施設セラレタリ
縦堀二百三十四間
横堀百二間
幅二間
深平均一間
明治四十四辛亥年九月 福沢村竹松青年会
当耕地ハ小芝原ト称シ旧来常ニ過湿ニ因リ其収穫ハ僅ニ貢租ニ充ツルノミ先生之ガ救済ノ為天保十年冬十月排水ヲ施設セラレタリ
縦堀二百三十四間
横堀百二間
幅二間
深平均一間
明治四十四辛亥年九月 福沢村竹松青年会
周辺
報徳堀の解説

報徳堀の解説
小芝原報徳堀位置図
現在地 標柱
小芝原報徳堀の由来と現状
竹松の田は、湿田が多く米の収穫も僅少であった。名主河野幸内が二宮尊徳先生に懇願し、天保一一年(一八四〇年)三月先生の指導により近郷の村々から多数の応援者が集まり、僅か四日で冷水堀が完成した。後に報徳堀と称された、この堀により二毛作が出来る乾田となった。
縦堀 二三四間(四二三メートル) 幅二間(三、六メートル[1]) 深平均一間(一、八メートル)
横堀 一一二間(二〇二メートル) 幅二間(三、六メートル[2]) 深平均一間(一、八メートル)
この堀は、一二五年経過した昭和四〇年(一九六五年)富士機器工業(株)富士ゼロックス(株)の工場敷地内に縦堀六五パーセント横堀九〇パーセントが包合された。更に一〇年後昭和五〇年(一九七五年)竹松圃場整備事業により残余の堀がすべて消滅した。明治四四年(一九一一年)九月
竹松青年会により横堀の起点地に建立された記念碑がほぼ近い現在地に移転されて、昔の面影を残すのみである。
平成十七年(二〇〇五年)三月 竹松平成会
現在地 標柱
小芝原報徳堀の由来と現状
竹松の田は、湿田が多く米の収穫も僅少であった。名主河野幸内が二宮尊徳先生に懇願し、天保一一年(一八四〇年)三月先生の指導により近郷の村々から多数の応援者が集まり、僅か四日で冷水堀が完成した。後に報徳堀と称された、この堀により二毛作が出来る乾田となった。
縦堀 二三四間(四二三メートル) 幅二間(三、六メートル[1]) 深平均一間(一、八メートル)
横堀 一一二間(二〇二メートル) 幅二間(三、六メートル[2]) 深平均一間(一、八メートル)
この堀は、一二五年経過した昭和四〇年(一九六五年)富士機器工業(株)富士ゼロックス(株)の工場敷地内に縦堀六五パーセント横堀九〇パーセントが包合された。更に一〇年後昭和五〇年(一九七五年)竹松圃場整備事業により残余の堀がすべて消滅した。明治四四年(一九一一年)九月
竹松青年会により横堀の起点地に建立された記念碑がほぼ近い現在地に移転されて、昔の面影を残すのみである。
平成十七年(二〇〇五年)三月 竹松平成会
[1]
「,」を「、」に改めた。
[2]
「,」を「、」に改めた。
縦堀起点の標柱

縦堀起点の標柱
小芝原縦堀 ここより北三十六間(六五メートル)南一九八間(三五八メートル)
平成十七年三月 竹松平成会
平成十七年三月 竹松平成会