遺髪塚
二宮金次郎の遺髪を納めた塚。

遺髪塚
二宮尊徳先生御遺髪塚
報徳二宮神社々司従七位草山惇造書
興国安民ノ師表二宮尊徳先生遺髪塚成ル施主川久保与三郎ハ先生外祖父太兵衛ノ玄孫ナリ太兵衛ノ孫昆弟相次デ先生ニ随身ス弟民次郎篤実勤勉報徳仕法ノ実地ニ奉仕スルコト数年先生即チ一家創立ノ資ト住宅建設用材ヲ附与シ帰ルニ臨ミテ曰ク曽我ノ墓地眺望佳ナリ我ガ没後遺髪ノ一部ヲ埋メヨト民次郎一家相続成リ先生卒シ給フニ及ビ喪ニ服シ僅少ノ遺髪ヲ拝受シ土瓶ニ密封シ之ヲ祖考ノ塋域ニ瘞ム後年塚トナサンコトヲ期シテ逝キ子源太郎旨ヲ承ケシモ亦果サズ昨昭和十二年五月歿ス当主与三郎父ノ葬斂ニ際シ遺髪ノ瓶ヲ発見ス依テ祖考二世ノ遺志ヲ全クセント先塋ノ清側ヲ相シ塚ヲ築キテ之ヲ納メ碑ヲ建テ結縁ノ旨ヲ明カニセント欲シ文ヲ属ス即チ報徳ノ道ニ従事スルノ故ヲ以テ之ヲ撰シ之ヲ書ス
昭和十三年五月廿日 大日本報徳社副社長佐々井信太郎撰
報徳二宮神社々司従七位草山惇造書
国府津町
石春謹制[1]
報徳二宮神社々司従七位草山惇造書
興国安民ノ師表二宮尊徳先生遺髪塚成ル施主川久保与三郎ハ先生外祖父太兵衛ノ玄孫ナリ太兵衛ノ孫昆弟相次デ先生ニ随身ス弟民次郎篤実勤勉報徳仕法ノ実地ニ奉仕スルコト数年先生即チ一家創立ノ資ト住宅建設用材ヲ附与シ帰ルニ臨ミテ曰ク曽我ノ墓地眺望佳ナリ我ガ没後遺髪ノ一部ヲ埋メヨト民次郎一家相続成リ先生卒シ給フニ及ビ喪ニ服シ僅少ノ遺髪ヲ拝受シ土瓶ニ密封シ之ヲ祖考ノ塋域ニ瘞ム後年塚トナサンコトヲ期シテ逝キ子源太郎旨ヲ承ケシモ亦果サズ昨昭和十二年五月歿ス当主与三郎父ノ葬斂ニ際シ遺髪ノ瓶ヲ発見ス依テ祖考二世ノ遺志ヲ全クセント先塋ノ清側ヲ相シ塚ヲ築キテ之ヲ納メ碑ヲ建テ結縁ノ旨ヲ明カニセント欲シ文ヲ属ス即チ報徳ノ道ニ従事スルノ故ヲ以テ之ヲ撰シ之ヲ書ス
昭和十三年五月廿日 大日本報徳社副社長佐々井信太郎撰
報徳二宮神社々司従七位草山惇造書
国府津町
石春謹制[1]
[1]
「制」の字の下部がコンクリートに埋まっているため、「製」の字の可能性がある。
周辺
解説

遺髪塚解説
二宮尊徳遺髪塚
尊徳二宮金次郎の母よしの実家は、旧曽我別所村の川久保木兵衛であった。当時、川久保家は父太兵衛の才覚で繁栄していたが、兄太兵衛の代になると、分をこえた生活と病災にみまわれて家運も傾きはじめた。
天保一一(一八四〇)年、尊徳は川久保家の再興をはかることになり、市太郎、民次郎、常次郎の三人の子息に無利息の報徳金を貸与し、復興の指導を行った。その結果もっともすぐれた成果を上げた民次郎が川久保家をつぐことになった。この民次郎は下野国の桜町(栃木県二宮町)仕法時代から、永らく尊徳に従者として仕えており、尊徳の死去にあたり、その遺髪を得て曽我へ帰った。この遺髪塚は民次郎の遺言によるもので、孫の与三郎が昭和十三年にその遺志を継いで建てたものである。
小田原市教育委員会
尊徳二宮金次郎の母よしの実家は、旧曽我別所村の川久保木兵衛であった。当時、川久保家は父太兵衛の才覚で繁栄していたが、兄太兵衛の代になると、分をこえた生活と病災にみまわれて家運も傾きはじめた。
天保一一(一八四〇)年、尊徳は川久保家の再興をはかることになり、市太郎、民次郎、常次郎の三人の子息に無利息の報徳金を貸与し、復興の指導を行った。その結果もっともすぐれた成果を上げた民次郎が川久保家をつぐことになった。この民次郎は下野国の桜町(栃木県二宮町)仕法時代から、永らく尊徳に従者として仕えており、尊徳の死去にあたり、その遺髪を得て曽我へ帰った。この遺髪塚は民次郎の遺言によるもので、孫の与三郎が昭和十三年にその遺志を継いで建てたものである。
小田原市教育委員会