大前神社
二宮金次郎が手掛けた大前堰や、一時期滞在した神宮寺跡などがある神社。

大前神社
周辺
大前堰

大前堰

大前堰の解説
大前堰と穴川用水
大前堰と穴川用水は、五行川を水源とし、真岡市から茨城県筑西市の一部を含む約1,300ヘクタールの農地へ農業用水を供給する施設であり、防火用水や地下水涵養等の役割も担っています。
堰の設置や用水路の開削時期は不明ですが、大前神社が所蔵する元禄6(1693)年の「元禄古絵図」に描かれていることから、長い歴史があることがわかります。正徳2(1712)年の『杭堰』改修に関する材料・人夫等を細かく記した古文書や、江戸時代後期の二宮尊徳による用水路改修等もあり、歴史的かつ規模の大きな農業用水利施設として、栃木県を代表するものの一つです。
昭和38(1963)年、大前は河川改修に伴い『背面支持方式鋼製起伏ゲート』となりましたが、設置から半世紀を過ぎたため、平成31(2019)年から令和3(2021)年にかけて全面改修を行い、現在の形に生まれ変わりました。
令和3(2021)年4月
油圧により堰が上下に動くことで起立・倒伏し穴川用水へ送る水量を調節することができます。
大前堰の仕様
(形式)背面支持方式鋼製起伏ゲート
(材質)ステンレス SUS304
(寸法)幅18.500m✕堰高1.600m(2門)
(事業名)県営農業用河川工作物応急対策事業
(施工者)上部工:日本自動機工株式会社 下部工:剋真建設株式会社
(管理者)穴川土地改良区連合
(事業主体)栃木県芳賀農業振興事務所
大前堰と穴川用水は、五行川を水源とし、真岡市から茨城県筑西市の一部を含む約1,300ヘクタールの農地へ農業用水を供給する施設であり、防火用水や地下水涵養等の役割も担っています。
堰の設置や用水路の開削時期は不明ですが、大前神社が所蔵する元禄6(1693)年の「元禄古絵図」に描かれていることから、長い歴史があることがわかります。正徳2(1712)年の『杭堰』改修に関する材料・人夫等を細かく記した古文書や、江戸時代後期の二宮尊徳による用水路改修等もあり、歴史的かつ規模の大きな農業用水利施設として、栃木県を代表するものの一つです。
昭和38(1963)年、大前は河川改修に伴い『背面支持方式鋼製起伏ゲート』となりましたが、設置から半世紀を過ぎたため、平成31(2019)年から令和3(2021)年にかけて全面改修を行い、現在の形に生まれ変わりました。
令和3(2021)年4月
油圧により堰が上下に動くことで起立・倒伏し穴川用水へ送る水量を調節することができます。
大前堰の仕様
(形式)背面支持方式鋼製起伏ゲート
(材質)ステンレス SUS304
(寸法)幅18.500m✕堰高1.600m(2門)
(事業名)県営農業用河川工作物応急対策事業
(施工者)上部工:日本自動機工株式会社 下部工:剋真建設株式会社
(管理者)穴川土地改良区連合
(事業主体)栃木県芳賀農業振興事務所

大前堰の碑
二宮先生遺蹟 大前堰
二宮先生ノ御仕法中最モ有名ナル堰ナリ
昭和十三年十一月建設
栃木県尊徳会
下野桜町遺蹟保存会
二宮先生ノ御仕法中最モ有名ナル堰ナリ
昭和十三年十一月建設
栃木県尊徳会
下野桜町遺蹟保存会

大前堰の記念碑
二宮尊徳先生遺跡 大前堰改築記念碑
栃木県知事 横川信夫書
大前堰の起因は古く明らかでないが二宮尊徳先生が桜町に赴任し農業振興にあたり文政十年四月朔日大改築をなしたその資材は重木六本九尺杭三十五本六尺杭六十五本四尺杭百五十三本三尺杭弐二百七十八本松枝七駄を用い木石使用による井堰としては二十世紀にも稀にみる堅牢な工法で以来五行川のたび重なる洪水にも堪え遺形を止めてきた先生のすぐれた土木技術の遺跡であつたその後水下九ヶ字即ち島荒町田町東沼小林物井鹿高田桑の川(東郷は堰元につき賦役免除)が人口割をもつて先生の遺志をついで農業用水の確保に毎年補修が続けられ昭和二十五年三月九ヶ字協議の上大前堰管理組合を組織しその事業を引きついできた昭和三十一年に栃木県営穴川改良事業が着工されこれに伴い昭和三十四年農林省の認可を得て穴川土地改良区連合を設立し大前堰並に穴川維持管理にあたつてきた五行川の改修に伴い近代技術の粋を集め油圧式自動顚倒堰が工費五千四百万円で昭和三十八年三月完成したのであるこの堰は長さ三十八米巾十二米高さ一、六米で水位が一、七米を超えると自動的に顚倒し常時一、七米の水位を保ち穴川及び真岡市街地の洪水が防止されるものであり施工者は栃木県知事横川信夫基礎工事請負者は宇都宮市増渕建設株式会社扉門の製作は大阪市株式会社栗本鉄工所である
昭和三十八年七月建立
穴川土地改良区連合
理事長 菊池幸作
栃木県知事 横川信夫書
大前堰の起因は古く明らかでないが二宮尊徳先生が桜町に赴任し農業振興にあたり文政十年四月朔日大改築をなしたその資材は重木六本九尺杭三十五本六尺杭六十五本四尺杭百五十三本三尺杭弐二百七十八本松枝七駄を用い木石使用による井堰としては二十世紀にも稀にみる堅牢な工法で以来五行川のたび重なる洪水にも堪え遺形を止めてきた先生のすぐれた土木技術の遺跡であつたその後水下九ヶ字即ち島荒町田町東沼小林物井鹿高田桑の川(東郷は堰元につき賦役免除)が人口割をもつて先生の遺志をついで農業用水の確保に毎年補修が続けられ昭和二十五年三月九ヶ字協議の上大前堰管理組合を組織しその事業を引きついできた昭和三十一年に栃木県営穴川改良事業が着工されこれに伴い昭和三十四年農林省の認可を得て穴川土地改良区連合を設立し大前堰並に穴川維持管理にあたつてきた五行川の改修に伴い近代技術の粋を集め油圧式自動顚倒堰が工費五千四百万円で昭和三十八年三月完成したのであるこの堰は長さ三十八米巾十二米高さ一、六米で水位が一、七米を超えると自動的に顚倒し常時一、七米の水位を保ち穴川及び真岡市街地の洪水が防止されるものであり施工者は栃木県知事横川信夫基礎工事請負者は宇都宮市増渕建設株式会社扉門の製作は大阪市株式会社栗本鉄工所である
昭和三十八年七月建立
穴川土地改良区連合
理事長 菊池幸作
神宮寺の跡地

神宮寺
二宮先生遺蹟 神宮寺阯
先生東郷陣屋ニ移ル迄一時仮寓セシ処ナリ
昭和十三年十一月建設
栃木県尊徳会
下野桜町遺蹟保存会
先生東郷陣屋ニ移ル迄一時仮寓セシ処ナリ
昭和十三年十一月建設
栃木県尊徳会
下野桜町遺蹟保存会
山内総左衛門の碑

山内総左衛門の碑
国家之制置代官以掌民政猶漢土郡守県令也
(※長文のため、続きは後日翻刻)
(※長文のため、続きは後日翻刻)

山内総左衛門の解説
真岡市指定有形文化財 山内明府功徳之碑
昭和61年4月15日指定
所有者 大前神社
名代官山内総左衛門功徳之碑である。総左衛門は通称甚五左衛門といい、号を董正と称した。寛政元年(1789)の生まれで、天保14年(1843)6月28日御勘定所付御料所扱として東郷陣屋に勤め、嘉永元年(1848)真岡代官となり東郷代官も兼務した。嘉永3年(1850)4月には、両陣屋を合併統合した。
竹垣三右衛門、岸本武太夫代官の治績も、その後任に人を得ず、次第に崩れてきたため、その復興を期待されて着任し民政に努め実績を上げた。
山内の功績は、桑名直行、原正定、二宮尊徳ら有能な僚使を用いて、施策を進めたことである。特に道路の普請、開拓、秩序の規定(五人組の整備)、義倉(飢饉に備え穀物を蓄える)などを行った。
この碑は、文久2年(1862)11月建立し、小山春山が撰文、書いたものであり、その治績、功徳、風尚、嗜好等が網羅されている。
大正13年2月11日、その功績を讃えられ贈正五位に叙せられた。
真岡市教育委員会 平成2年12月
八番
文久二年(一八六二年)建立
山内明府功徳之碑
名代官小山春山の撰文
東郷
昭和61年4月15日指定
所有者 大前神社
名代官山内総左衛門功徳之碑である。総左衛門は通称甚五左衛門といい、号を董正と称した。寛政元年(1789)の生まれで、天保14年(1843)6月28日御勘定所付御料所扱として東郷陣屋に勤め、嘉永元年(1848)真岡代官となり東郷代官も兼務した。嘉永3年(1850)4月には、両陣屋を合併統合した。
竹垣三右衛門、岸本武太夫代官の治績も、その後任に人を得ず、次第に崩れてきたため、その復興を期待されて着任し民政に努め実績を上げた。
山内の功績は、桑名直行、原正定、二宮尊徳ら有能な僚使を用いて、施策を進めたことである。特に道路の普請、開拓、秩序の規定(五人組の整備)、義倉(飢饉に備え穀物を蓄える)などを行った。
この碑は、文久2年(1862)11月建立し、小山春山が撰文、書いたものであり、その治績、功徳、風尚、嗜好等が網羅されている。
大正13年2月11日、その功績を讃えられ贈正五位に叙せられた。
真岡市教育委員会 平成2年12月
八番
文久二年(一八六二年)建立
山内明府功徳之碑
名代官小山春山の撰文
東郷
なお、山内総左衛門は、『二宮翁夜話』の中では「山内董正」の名で登場する。
大前二宮神社

大前二宮神社