佐藤信重の碑
二宮金次郎の門人荒至重とともに上栃窪の大谷用水を築いた佐藤信重の碑。

報徳碑
周辺
佐藤信重の碑1

佐藤信重の碑1
上栃窪連中
佐藤信重翁之碑
発起人十九名
明治廿四年八月一日
堰水湯々 桑園蒼々
厥勲厥愛 今古之良
磐城岩崎宗山撰併書
佐藤信重翁之碑
発起人十九名
明治廿四年八月一日
堰水湯々 桑園蒼々
厥勲厥愛 今古之良
磐城岩崎宗山撰併書
佐藤信重の碑2

佐藤信重の碑2
報徳
佐藤信重君
一堰大堰大谷堰江下中
足曳迺山形付留此乃上栃窪乃里爾美志翁阿里名乎婆佐藤信重登曽云布奈留此翁父主乎甚五郎登云此母刀自乎波耶登云比志賀今波無人登成給怒此翁天保九年登云布年正月乃十日余里五日乃日爾生連若時与理手書物数布留業乎好気慨乎以弖安政六年登云布年与理明治三十年登云布年迄爾肝煎登云布爾奈理里正登云布爾奈理戸長登云布爾奈理村長登云布爾奈理区長登云布爾奈理又或時爾波村会議員登云布爾奈理郡会議員登云布爾毛奈理弖能久務勉米給比支常爾世乃為人之為乎計理弖大奈留堰乎作理或波磐乎穿知弖水乎疏旡或波野原乎田畠登奈志支故連是乎以弖此里近支渡乃田地旱爾母水涸留勿憂無久穀物乃年々爾実母此翁乃阿礼波也気理今回里人等入紐乃同心爾思議理翁乃功績乎石爾録志後世爾伝牟登志弖這蔦乃拙支吾爾誂付乎印南野乃辞難久弖奈牟 人皆母心振起勢比翁賀多天志功績乎見留迩都気弖毛
時波明治三十年余理四年登云布年八月乃三日乃日 発起人四十名
磐城人岩崎乃宗山
佐藤信重君
一堰大堰大谷堰江下中
足曳迺山形付留此乃上栃窪乃里爾美志翁阿里名乎婆佐藤信重登曽云布奈留此翁父主乎甚五郎登云此母刀自乎波耶登云比志賀今波無人登成給怒此翁天保九年登云布年正月乃十日余里五日乃日爾生連若時与理手書物数布留業乎好気慨乎以弖安政六年登云布年与理明治三十年登云布年迄爾肝煎登云布爾奈理里正登云布爾奈理戸長登云布爾奈理村長登云布爾奈理区長登云布爾奈理又或時爾波村会議員登云布爾奈理郡会議員登云布爾毛奈理弖能久務勉米給比支常爾世乃為人之為乎計理弖大奈留堰乎作理或波磐乎穿知弖水乎疏旡或波野原乎田畠登奈志支故連是乎以弖此里近支渡乃田地旱爾母水涸留勿憂無久穀物乃年々爾実母此翁乃阿礼波也気理今回里人等入紐乃同心爾思議理翁乃功績乎石爾録志後世爾伝牟登志弖這蔦乃拙支吾爾誂付乎印南野乃辞難久弖奈牟 人皆母心振起勢比翁賀多天志功績乎見留迩都気弖毛
時波明治三十年余理四年登云布年八月乃三日乃日 発起人四十名
磐城人岩崎乃宗山
なお、この碑の文体は宣命体と呼ばれ、以下のように書き下すとのこと。
足曳きの山形付ける 此の上栃窪の里に 美し翁あり 名をば佐藤信重とぞ云ふなる 此の翁 父主を甚五郎と云ひ 此の母刀自を波耶と云ひしが 今は無き人となり給ひぬ 此の翁 天保九年と云ふ年正月の十日あまり五日の日に生れ 若き時より 手書き物 数ふる業を好みけるを以て 安政六年と云ふ年より明治三十年と云ふ年までに 肝煎と云ふになり 里正と云ふになり 戸長と云ふになり 村長と云ふになり 区長と云ふになり また或時は村会議員と云ふになり 郡会議員と云ふにもなりて よく務勉め給ひき 常に世の為人の為を計りて 大なる堰を作り 或いは磐を穿ちて水を疏む 或は野原を田畠となしき 故れ是を以て 此の里近き 渡りの田地 旱にも水涸る勿く憂ひ無く穀物の年々に 実るも此の翁のあればなりけり 今回里人等 入紐の同じ心に思ひ議り 翁の功績を石に録し 後の世に伝へむとして 這ふ蔦の 拙き吾に 誂へ付けるを 印南野の辞難くてなむ 人皆も心振起せ 此の老翁が 立てし功績を見るにつけても 時は明治三十年あまり四年と云ふ年八月の三日の日 発起人四十名 磐城人岩崎乃宗山
その他

佐藤弁司郎の碑

佐藤円治の碑
参考資料
碑文の翻刻にあたっては、鹿島区猪狩氏からいただいた鹿島文化財愛好会発刊『かやはら』2016, vol. 29 (第22回全国報徳サミット報徳碑特集号)を参考にした。

『かやはら』表紙
該当ページは以下のとおり。
p. 32 佐藤信重翁之碑 |
p. 33 佐藤信重君 |
サイト掲載にあたっては、旧字体を新字体に改めるなど、若干の変更を加えた。