御仕法発祥の地
相馬における仕法発祥の地。

標柱
二宮仕法発祥の地 ——成田
人は天地のありとあらゆるもの、と 先祖のお陰でこの世に生きている、
これに報いることが報徳であり人の道である。
報徳の訓えに心をはげまし、豊かな相馬をきずこう
人は天地のありとあらゆるもの、と 先祖のお陰でこの世に生きている、
これに報いることが報徳であり人の道である。
報徳の訓えに心をはげまし、豊かな相馬をきずこう
周辺
解説

解説
相馬における二宮仕法発祥の地
成田 坪田
ひどく貧しかった相馬の村々を、住みよい理想的な村につくりかえたといわれた御仕法が、最初に相馬に実施された記念すべき村は成田と坪田の両村であった。
時は弘化二年(一八四五)十二月一日で、この日二宮尊徳の代理として富田高慶が、成田の仕法係高野丹吾宅で開業の式をあげ、まず村民一同の記名投票によって出精奇徳人(篤農家)を選んで表彰することから始められた。こうして開墾開拓はもとより各家の経済整理立直しにいたるまで計画的に実行された。
それからすべて「十指の指するところ、十目の見るところ[1]」にしたがい、当時としては驚くほどの教育的民主的な新しい方法であった。その結果村の風紀まで一新されたという。こうして道路は開かれ、溜池はつくられて米の増収を見、善行者は表彰され、病気の者は救われ、借金は返済され、古い家は新築された。最後に郷倉に備荒貯蓄が出来てはじめて仕法仕上げと称して、次の待ち望んでいる村に仕法が移されたのである。
坪田、成田の次には、二年後の弘化四年から大井、塚原その他の仕法がはじめられた。
成田 坪田
ひどく貧しかった相馬の村々を、住みよい理想的な村につくりかえたといわれた御仕法が、最初に相馬に実施された記念すべき村は成田と坪田の両村であった。
時は弘化二年(一八四五)十二月一日で、この日二宮尊徳の代理として富田高慶が、成田の仕法係高野丹吾宅で開業の式をあげ、まず村民一同の記名投票によって出精奇徳人(篤農家)を選んで表彰することから始められた。こうして開墾開拓はもとより各家の経済整理立直しにいたるまで計画的に実行された。
それからすべて「十指の指するところ、十目の見るところ[1]」にしたがい、当時としては驚くほどの教育的民主的な新しい方法であった。その結果村の風紀まで一新されたという。こうして道路は開かれ、溜池はつくられて米の増収を見、善行者は表彰され、病気の者は救われ、借金は返済され、古い家は新築された。最後に郷倉に備荒貯蓄が出来てはじめて仕法仕上げと称して、次の待ち望んでいる村に仕法が移されたのである。
坪田、成田の次には、二年後の弘化四年から大井、塚原その他の仕法がはじめられた。
[1]
『中庸』にある言葉。