宗兵衛堤
二宮仕法関連の史跡。

宗兵衛堤
周辺
記念碑

報徳碑
報徳
御仕法遺蹟
宗兵衛堤
宗兵衛丹波国生れ天明饑饉後相馬に来り刻苦勉励一生をかけ新堤を築き美田を開く仕法掛頭取富田高慶先生等師とす慶応三年八月三日没す。村人等功績を讃え宗兵衛堤と名づけ報徳碑建立に着手す偶々戊辰の役起り成らずして今日に至る我等有志発起して碑の復元再興を企図せり
昭和五十七年八月三日
昭和六十一年十一月二十三日
御仕法遺蹟
宗兵衛堤
宗兵衛丹波国生れ天明饑饉後相馬に来り刻苦勉励一生をかけ新堤を築き美田を開く仕法掛頭取富田高慶先生等師とす慶応三年八月三日没す。村人等功績を讃え宗兵衛堤と名づけ報徳碑建立に着手す偶々戊辰の役起り成らずして今日に至る我等有志発起して碑の復元再興を企図せり
昭和五十七年八月三日
昭和六十一年十一月二十三日
解説

解説
宗兵衛堤(そうべえつつみ)
宗兵衛堤は、天保の飢饉のあと富沢に移り住んだ宗兵衛が、稲作を始めようとしたとき、水を確保するため自家用の溜池をつくったのが最初であり、御仕法が着手されたおかげで大きな溜池に改修することができました。
このほかにも付近には嘉永五年(一八五二)~安政四年(一八五七)にかけて新しく造られた溜池が点在しています。
この付近の地名「焼切」は、天保の飢饉後入植した真宗移民たちが、焼き畑をして荒地を開墾したことからこの名が付きました。
宗兵衛堤は、天保の飢饉のあと富沢に移り住んだ宗兵衛が、稲作を始めようとしたとき、水を確保するため自家用の溜池をつくったのが最初であり、御仕法が着手されたおかげで大きな溜池に改修することができました。
このほかにも付近には嘉永五年(一八五二)~安政四年(一八五七)にかけて新しく造られた溜池が点在しています。
この付近の地名「焼切」は、天保の飢饉後入植した真宗移民たちが、焼き畑をして荒地を開墾したことからこの名が付きました。