天性寺
二宮金次郎が円応和尚および烏山藩から請われ、飢饉救済のためにお救い小屋を設けた寺院。

天性寺
周辺
お救い小屋跡

お救い小屋跡
Designated Cultural Property of the City
那須烏山市指定文化財
Osukui Hut Ruins
お救い小屋跡
那須烏山市指定文化財
Osukui Hut Ruins
お救い小屋跡
参道を上っていく途中、左手にある。
救済記念碑

救済記念碑
天保凶荒救済記念碑
天保七年寒冷多雨にして稔らす民飢に苦む者多し当時那須烏山芳賀両郡に亘り四十五箇村を領せる烏山藩は財政窮乏の極にありて領民の惨状を救ふ能はす家老菅谷八郎右衛門天性寺円応和尚の両人之を憂へて桜町に二宮尊徳先生を訪ひ救済の指導を請ふ藩主大久保忠保公の懇請到るに及ひ先生乃ち助力を諾し多量の米殻を貸与せらる領民依りて凶荒の悲惨より救はるるを得たり此辺は当時御救小屋十二棟を建て飢民を収容する多き時は千人を超え百五十余日に亘り延人員十一万二千五百三十九人に給食したる遺蹟なり菅谷氏は三河苅谷藩士矢野氏に生れ菅谷氏に入る忠実果断克く藩政を処理したり円応は奥州に生れ文政の初天性寺に来る剛毅にして救世の志厚く菅谷氏と意気投合し文政十一年以降呼応して領内の荒蕪地を開拓し七十余町を成功せり天保の凶荒には両氏専心救済の衝に当り更に二宮先生の仕法を受け大規模なる開発を計画し領民亦感奮して勤倹の風大に勃興せり然るに円応は翌八年十二月廿八日病によりて寂し次いて菅谷氏も同九年十二月退隠するに至り事業稍停頓したるも尚能く二百余町歩の開拓を成就し嘉永五年正月九日歿するに至る迄堅忍其忠誠を貫きたり茲に二宮先生の高大なる恩沢を追謝し菅谷氏円応師の崇高なる人格と徳業とを景慕し其梗概を記して後毘に伝ふ
昭和十三年二月建之
額字 大久保忠成公之書
碑文 小林初太郎謹書
坂場森吉刻
天性寺四十二世大山信光代
主唱
新井万吉
小林初太郎
渡辺弥平
柏 浅吉
森 仁兵衛
草野徳造
天保七年寒冷多雨にして稔らす民飢に苦む者多し当時那須烏山芳賀両郡に亘り四十五箇村を領せる烏山藩は財政窮乏の極にありて領民の惨状を救ふ能はす家老菅谷八郎右衛門天性寺円応和尚の両人之を憂へて桜町に二宮尊徳先生を訪ひ救済の指導を請ふ藩主大久保忠保公の懇請到るに及ひ先生乃ち助力を諾し多量の米殻を貸与せらる領民依りて凶荒の悲惨より救はるるを得たり此辺は当時御救小屋十二棟を建て飢民を収容する多き時は千人を超え百五十余日に亘り延人員十一万二千五百三十九人に給食したる遺蹟なり菅谷氏は三河苅谷藩士矢野氏に生れ菅谷氏に入る忠実果断克く藩政を処理したり円応は奥州に生れ文政の初天性寺に来る剛毅にして救世の志厚く菅谷氏と意気投合し文政十一年以降呼応して領内の荒蕪地を開拓し七十余町を成功せり天保の凶荒には両氏専心救済の衝に当り更に二宮先生の仕法を受け大規模なる開発を計画し領民亦感奮して勤倹の風大に勃興せり然るに円応は翌八年十二月廿八日病によりて寂し次いて菅谷氏も同九年十二月退隠するに至り事業稍停頓したるも尚能く二百余町歩の開拓を成就し嘉永五年正月九日歿するに至る迄堅忍其忠誠を貫きたり茲に二宮先生の高大なる恩沢を追謝し菅谷氏円応師の崇高なる人格と徳業とを景慕し其梗概を記して後毘に伝ふ
昭和十三年二月建之
額字 大久保忠成公之書
碑文 小林初太郎謹書
坂場森吉刻
天性寺四十二世大山信光代
主唱
新井万吉
小林初太郎
渡辺弥平
柏 浅吉
森 仁兵衛
草野徳造
碑

碑
二宮尊徳先生遺蹟
天性寺御救小屋阯
尊徳会
天性寺御救小屋阯
尊徳会
参道入口の門柱脇にある。
円応和尚の墓

円応和尚の墓
Designated Cultural Property of the City
那須烏山市指定文化財
Tomb of Ennou-osho
円応和尚の墓
那須烏山市指定文化財
Tomb of Ennou-osho
円応和尚の墓
菅谷八郎右衛門の墓

菅谷八郎右衛門の墓
Tomb of Sugenoyahachirouemon
菅谷八郎右衛門の墓
昭和三十七年三月八日指定
那須島山市教育委員会
菅谷八郎右衛門の墓
昭和三十七年三月八日指定
那須島山市教育委員会