二宮金次郎像(道の駅にのみや)
道の駅「にのみや」にある二宮金次郎像。

二宮金次郎像
二宮金次郎像
二宮尊徳(金次郎)は一八二二(文政五)年、小田原藩主大久保忠真から旗本宇津家の領地である下野国桜町領(現栃木県二宮町)の復興の命を受け、役人として桜町陣屋へ赴任した。
一七八七年(天明七)年、小田原の農家に生まれた尊徳は、水害や両親の死による一家離散という逆境をはねのけ、生家を復興しただけでなく、小田原藩家老服部家の建て直しにも成功する等高い才能が認められ、の大役を受けたのである。
当時の桜町は四千石といわれていたが、千石にも満たないほど田畑、人心共に疲れ切った状態だった。尊徳は早朝から一軒一軒訪ね歩き、勤勉を勧め、善行者を表彰したり無利息金貸付制度を設ける等独自の仕法を行い、桜町は豊かな村に生まれ変わったのである。
尊徳が自ら体得した「勤労」「分度」「推譲」の報徳の教えは、天保の大飢饉にも生かされ、多くの人々を救済し、全国六百十余カ所の藩や郡村の復興を成功させた。
三十六歳から二十六年間、働き盛りを過ごしたこの時代は、尊徳の充実した時期で報徳思想の実践地でとして、その名は全国に広がっている。
平成九年十一月吉日建立
二宮町長 小倉尚志
二宮尊徳(金次郎)は一八二二(文政五)年、小田原藩主大久保忠真から旗本宇津家の領地である下野国桜町領(現栃木県二宮町)の復興の命を受け、役人として桜町陣屋へ赴任した。
一七八七年(天明七)年、小田原の農家に生まれた尊徳は、水害や両親の死による一家離散という逆境をはねのけ、生家を復興しただけでなく、小田原藩家老服部家の建て直しにも成功する等高い才能が認められ、の大役を受けたのである。
当時の桜町は四千石といわれていたが、千石にも満たないほど田畑、人心共に疲れ切った状態だった。尊徳は早朝から一軒一軒訪ね歩き、勤勉を勧め、善行者を表彰したり無利息金貸付制度を設ける等独自の仕法を行い、桜町は豊かな村に生まれ変わったのである。
尊徳が自ら体得した「勤労」「分度」「推譲」の報徳の教えは、天保の大飢饉にも生かされ、多くの人々を救済し、全国六百十余カ所の藩や郡村の復興を成功させた。
三十六歳から二十六年間、働き盛りを過ごしたこの時代は、尊徳の充実した時期で報徳思想の実践地でとして、その名は全国に広がっている。
平成九年十一月吉日建立
二宮町長 小倉尚志
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