『報徳論』第12章
国の本は農にあるを論ず
原文
「
伝 曰、『 物 有本末。 事 有終始。 知 所先 後、 則 近 道矣。』[註1]
天地間、万物、終始、本末あらざるものなし。是の故に、其の本を厚うすれば、万物盛んなり。其の末を厚うすれば、万物衰ふ。何となれば、末より本を生ずるにあらず、其の本立ちて、然る後、末なるもの生ずればなり。故に一木だも其の本根を厚うせざれば、花実の盛んなるを得ず。況んや国天下に於いてをや。
夫れ国の本は民にあり。民の本は食にあり。食の本は農業にあり。是を以て、農業盛んなれば、民優かなり。民優かなれば、国家の盛富、何ぞ論ずるを待たん。蓋し国の衰廃するもの、一朝一夕の故にあらず。農業衰へて、民困窮し、民困窮して、然る後、国の大患となる。斯くのごとく、国の大本にして重んずべき農業を往々卑賤の業なりとす。他なし。本末、明らかならざるが故なり。其の明らかならざるもの、譬へば池水に落葉の浮かぶがごとし。池水ありて、然る後に落葉浮かぶと雖も、浮かぶもの積もれば、之が為に池水を見るを得ずして、池の本は水にあるを忘れ、落葉を以て池となすがごとし。若し水を見んとせば、其の後に積もれる落葉を搔き分けて見ざれば、水は本にして落葉は末なるを弁じ難し。
世に士の職あり、工商の業あり、儒仏の道あり、諸々の技芸あり。又金銀財宝あり。世人、之を貴しとするや、農事に比して同日の論にあらず[2]。何ぞ顚倒の甚しきや。今明らかに、其の本末を弁ぜん。一国皆行ひて傾覆なきものは、本源の道なり。一国皆行ひて立つべからざるものは、末葉の道なり。夫れ士を以て本となすか。国人悉く士となれば、飢渇に迫り、数日を支ふべからず。工を以て本となすか。闔国皆工となれば、亦飢渇を支ふ能はず[3]。商賈を以て本となすか。国人皆商賈となれば、亦数日も立つべからず。若し儒道を以て本となすか。国中儒者となり、書を読み、経を講じ見るべし。飢渇、立ち処に至らん。仏道を以て本となすか。国人挙りて僧侶となるも、飢渇に迫り、何を以て数日を支ふを得ん[4]。若し将た技芸を以て本となすか。飢渇忽ち至り、人類爰に滅せん。況んや財宝の末なるもの、何ぞ言ふに足らん。是に由りて之を観れば、世人の貴ぶ所の数者は皆末にして、国の大本にあらざるや知るべきのみ。
嗚呼、農業は人々之を賤しむと雖も、国人挙りて之を行ひ見るべし。期年耕せば若干の食を得、弥耕せば、食弥饒かにして、身を養ひ、生を保ち、人々足り、家々優かなり。幾百歳を経ると雖も、聊かも立つべからざるの憂ひなし。前には挙りて諸道を行ひ、数日も立つべからざるもの、今は農を為して幾百歳と雖も、継続することを得。是れ他なし。誠に国家の大本なるが故なり。然らば則ち数千歳を亙りて、飢ゑず、寒えず、人事の憂ひなきものは本にして、飢渇忽ち至り、数日を支ふべからざるものは必ず末なり。其の末なるものは本に因りて生ず。池中、水あるが故に落葉浮かび、木根、全きが故に枝葉栄え、農の大本立ち、米粟饒かなるが故に諸道起こる。何の疑ひか之れあらん。然らば則ち士の済々たるも、農あるが故なり。工商の盛んなるも、農あるが故なり。儒仏の道行はるるも、農あるが故なり。技芸の立つるものも、農あるが故なり。金銀財宝の貴きも、農あるが故なり。且つ諸道の為に農を立つるにあらず。農の為に諸道を立つるなり。」
曰はく、「農の為に諸道の立つるもの、如何。」
曰はく、「上古、国土未だ開けざる時は、人々木実を拾ひ、草根を掘り、食となし、穀食殆んど稀にして飢餓の憂ひを免れず。是に於いて、原野を開墾して田圃となし、五穀を播種して稼穡の道立ち、民、食、始めて優かにして其の生を養ひ、身を保つを得たり。
然れども、大鳥猛獣の害あり。又強暴、掠奪の憂ひあり。之が為に其の業に安んずるを得ず。是に於いて、衆に選びて力量、知慮あるものを挙げ、其の妨害を拒ぐ事を任ぜしめ、米粟を出だして其の耕すに易ふ。是れ後世、士あるの発端なり。居室を作りて穴居に代へんとす。是に於いて、工事に巧なるものをして之を作らしめ、米粟を与へて其の労を補ひ、其の耕すに易ふ。是れ工たるものの始めなり。又其の有無を通ぜざれば、活計の便を得ず。是に於いて、交易、融通の人を置きて其の有無を通ぜしめ、米粟を以て其の労を補ふ。是れ商賈の由りて起こる所なり。
然らば士工商は、素と皆農者便宜の為に起こる所にして、士工商の為に農民を立つるにあらざるや明らかなり。然して後世に至り、後に立つるものを以て貴しとし、本来の民を以て卑しとし、本を軽んじ、末を重んじ、士は民の為に力を尽くすこと少なくして、多く米粟を得んと欲し、工商は射利を専らにして奢侈に趨る。独り農民のみ風に櫛り、雨に浴し、寒暑の苦を忍び、稼穡の艱難を尽くすと雖も、困窮を免れざれば、往々末利を遂ひて業を廃す。農民、業を廃せば、土地荒蕪す。土地荒蕪すれば、国衰ふ。国衰ふれば、焉んぞ士工商、衰貧せざるを得んや。
蓮の泥中に根ざして空中に開花するは、其の根、泥中に全きが故に、花葉美なるを得。其の根は本なり。其の花は末なり。而して末なるものは美にして、本なるもの、美ならず。美ならざるが為に賤しんで其の本を棄つれば、美として愛せし花葉も忽ち衰枯す。
故に聖人、之を察し、自ら謙譲して民と艱苦を同じうし、節倹を行ひ、仁政を布き、下民を恵恤して衣食住を安んじ、税斂を薄うして之を安撫する、子のごとし。故に庶民、感動して其の業を励み、其の生を楽しみ、君を仰ぐ、父母のごとく、生財日々に優かに、国家盛富にして永く安寧なるもの、他なし。其の花葉を主とせずして、其の本根を厚うするが故なり。
夫れ国の本は民にあり。民の本は食にあり。食の本は農業にあり。是を以て、農業盛んなれば、民優かなり。民優かなれば、国家の盛富、何ぞ論ずるを待たん。蓋し国の衰廃するもの、一朝一夕の故にあらず。農業衰へて、民困窮し、民困窮して、然る後、国の大患となる。斯くのごとく、国の大本にして重んずべき農業を往々卑賤の業なりとす。他なし。本末、明らかならざるが故なり。其の明らかならざるもの、譬へば池水に落葉の浮かぶがごとし。池水ありて、然る後に落葉浮かぶと雖も、浮かぶもの積もれば、之が為に池水を見るを得ずして、池の本は水にあるを忘れ、落葉を以て池となすがごとし。若し水を見んとせば、其の後に積もれる落葉を搔き分けて見ざれば、水は本にして落葉は末なるを弁じ難し。
世に士の職あり、工商の業あり、儒仏の道あり、諸々の技芸あり。又金銀財宝あり。世人、之を貴しとするや、農事に比して同日の論にあらず[2]。何ぞ顚倒の甚しきや。今明らかに、其の本末を弁ぜん。一国皆行ひて傾覆なきものは、本源の道なり。一国皆行ひて立つべからざるものは、末葉の道なり。夫れ士を以て本となすか。国人悉く士となれば、飢渇に迫り、数日を支ふべからず。工を以て本となすか。闔国皆工となれば、亦飢渇を支ふ能はず[3]。商賈を以て本となすか。国人皆商賈となれば、亦数日も立つべからず。若し儒道を以て本となすか。国中儒者となり、書を読み、経を講じ見るべし。飢渇、立ち処に至らん。仏道を以て本となすか。国人挙りて僧侶となるも、飢渇に迫り、何を以て数日を支ふを得ん[4]。若し将た技芸を以て本となすか。飢渇忽ち至り、人類爰に滅せん。況んや財宝の末なるもの、何ぞ言ふに足らん。是に由りて之を観れば、世人の貴ぶ所の数者は皆末にして、国の大本にあらざるや知るべきのみ。
嗚呼、農業は人々之を賤しむと雖も、国人挙りて之を行ひ見るべし。期年耕せば若干の食を得、弥耕せば、食弥饒かにして、身を養ひ、生を保ち、人々足り、家々優かなり。幾百歳を経ると雖も、聊かも立つべからざるの憂ひなし。前には挙りて諸道を行ひ、数日も立つべからざるもの、今は農を為して幾百歳と雖も、継続することを得。是れ他なし。誠に国家の大本なるが故なり。然らば則ち数千歳を亙りて、飢ゑず、寒えず、人事の憂ひなきものは本にして、飢渇忽ち至り、数日を支ふべからざるものは必ず末なり。其の末なるものは本に因りて生ず。池中、水あるが故に落葉浮かび、木根、全きが故に枝葉栄え、農の大本立ち、米粟饒かなるが故に諸道起こる。何の疑ひか之れあらん。然らば則ち士の済々たるも、農あるが故なり。工商の盛んなるも、農あるが故なり。儒仏の道行はるるも、農あるが故なり。技芸の立つるものも、農あるが故なり。金銀財宝の貴きも、農あるが故なり。且つ諸道の為に農を立つるにあらず。農の為に諸道を立つるなり。」
曰はく、「農の為に諸道の立つるもの、如何。」
曰はく、「上古、国土未だ開けざる時は、人々木実を拾ひ、草根を掘り、食となし、穀食殆んど稀にして飢餓の憂ひを免れず。是に於いて、原野を開墾して田圃となし、五穀を播種して稼穡の道立ち、民、食、始めて優かにして其の生を養ひ、身を保つを得たり。
然れども、大鳥猛獣の害あり。又強暴、掠奪の憂ひあり。之が為に其の業に安んずるを得ず。是に於いて、衆に選びて力量、知慮あるものを挙げ、其の妨害を拒ぐ事を任ぜしめ、米粟を出だして其の耕すに易ふ。是れ後世、士あるの発端なり。居室を作りて穴居に代へんとす。是に於いて、工事に巧なるものをして之を作らしめ、米粟を与へて其の労を補ひ、其の耕すに易ふ。是れ工たるものの始めなり。又其の有無を通ぜざれば、活計の便を得ず。是に於いて、交易、融通の人を置きて其の有無を通ぜしめ、米粟を以て其の労を補ふ。是れ商賈の由りて起こる所なり。
然らば士工商は、素と皆農者便宜の為に起こる所にして、士工商の為に農民を立つるにあらざるや明らかなり。然して後世に至り、後に立つるものを以て貴しとし、本来の民を以て卑しとし、本を軽んじ、末を重んじ、士は民の為に力を尽くすこと少なくして、多く米粟を得んと欲し、工商は射利を専らにして奢侈に趨る。独り農民のみ風に櫛り、雨に浴し、寒暑の苦を忍び、稼穡の艱難を尽くすと雖も、困窮を免れざれば、往々末利を遂ひて業を廃す。農民、業を廃せば、土地荒蕪す。土地荒蕪すれば、国衰ふ。国衰ふれば、焉んぞ士工商、衰貧せざるを得んや。
蓮の泥中に根ざして空中に開花するは、其の根、泥中に全きが故に、花葉美なるを得。其の根は本なり。其の花は末なり。而して末なるものは美にして、本なるもの、美ならず。美ならざるが為に賤しんで其の本を棄つれば、美として愛せし花葉も忽ち衰枯す。
故に聖人、之を察し、自ら謙譲して民と艱苦を同じうし、節倹を行ひ、仁政を布き、下民を恵恤して衣食住を安んじ、税斂を薄うして之を安撫する、子のごとし。故に庶民、感動して其の業を励み、其の生を楽しみ、君を仰ぐ、父母のごとく、生財日々に優かに、国家盛富にして永く安寧なるもの、他なし。其の花葉を主とせずして、其の本根を厚うするが故なり。
書 曰、『 民 惟 邦 本。本 固 邦 寧』[註5]
是を謂ふなり。是の故に、国の本たる農業盛んなる時は、国、豊富にして、仁義、礼譲、行はれ、四民、各其の生を楽しめり。此の業衰ふる時は、国、衰貧にして災害起こり、四民、手足を措く処なく、敗亡を免れず。天下国家の治乱、盛衰は多端なるがごとしと雖も、要するに本根の盛衰に由らざるはなし。然らば則ち古今となく、国の衰廃に陥るものは、其の末を厚うし、其の本を薄うして、本根衰弱し、末葉蔓延の致す所にあらずや。然して国の衰を挙げ、廃を興さんとするに当たり、尚ほ枝葉に因循して其の本根を厚うするの道に帰らざれば、仮令、学、六芸に通じ、力、山を動かすと雖も、益労して愈疲弊す。亦何の益かあらん。故に能く本末軽重の由りて起こる所を明らかにし、其の末を薄うして其の本を厚うし、大いに百姓を恵恤し、其の艱難を憐れみ、其の窮苦を除き、其の生を安んじ、農業に進ましむれば、国人、皆農は国の本にして其の貴き所以を知り、風習、頓に改まり、勤農を主として末利を逐はず、土地開け、生財優かにして、仁義の道興る。
鳴呼、大いなるかな、農業や。此の業盛んなれば、万物之に由りて生じ、此の業衰ふれば、万物皆廃す。何ぞや。国の本は民にあり、民の本は食にあり、食の本は農にあり。豈に惟だ人のみならんや。凡そ有生のもの、食なき時は一日も立つべからざるが故なり。
(報徳論 終)
鳴呼、大いなるかな、農業や。此の業盛んなれば、万物之に由りて生じ、此の業衰ふれば、万物皆廃す。何ぞや。国の本は民にあり、民の本は食にあり、食の本は農にあり。豈に惟だ人のみならんや。凡そ有生のもの、食なき時は一日も立つべからざるが故なり。
(報徳論 終)
[1]
『大学章句』経一章の「物有本末。事有終始。知所先後、則近道矣。」を踏まえた言葉。
[2]
「同日の論にあらず」とは「差が大きすぎる」の意。
[3]
「支ふ能はず」は原文まま。「支ふる能はず」の意。
[4]
「支ふを得ん」を原文まま。「支ふるを得ん」の意。
[5]
『書経』五子之歌篇の「民惟邦本、本固邦寧。」を踏まえた言葉。
『二宮尊徳全集』第36巻を底本とした。ただし、次の方針に基づき、本サイトの管理人が独自に修訂を施してある。◆漢文以外は、すべて横書きに改めた。◆本文のカタカナはひらがなに改めた。◆旧字体は、新字体に改めた。◆仮名遣いは原則として旧仮名遣いのままとしたが、現代的な文語文法に基づき、適宜修正した。(例:飢へ→飢ゑ、全ふ→全う)◆送り仮名、句読点、括弧、改行は、現代的な感覚に即して大幅に改めた。(例:譬ば→譬へば、曰……→曰はく、「……。」) ◆振り仮名は、推測に基づき、適宜施した。◆助動詞および助詞は、仮名に開いた。(例:也→なり、如し→ごとし)◆「ゝ」や「〱」は原則として元の仮名に戻し、「〻」は削った。◆漢文には適宜訓点を補った。◆闕字、平出は廃した。