『二宮翁夜話』第1巻 第38章
嘉永五年正月翁おのが家の温泉に…
原文
嘉永五年正月、翁、おのが家の温泉に入浴せらるる事、数日。予が兄、大沢精一、翁に随ひて入浴す。
翁、湯桁にゐまして諭して曰はく、「夫れ世の中、汝等がごとき富者にして、皆足る事を知らず、飽くまでも利を貪り、不足を唱ふるは、大人の、この湯船の中に立ちて、屈まずして、湯を肩に掛けて、『湯船、はなはだ浅し。膝にだも満たず』と罵るがごとし。若し湯をして望みに任せば、小人、童子のごときは入浴する事あたはざるべし。是れ湯船の浅きにはあらずして、己が屈まざるの過ちなり。能く此の過ちを知りて屈まば、湯、忽ち肩に満ちて、おのづから十分ならん。何ぞ他に求むる事をせん。世間、富者の不足を唱ふる、何ぞ是に異ならん。夫れ分限を守らざれば、千万石といへども不足なり。一度、過分の誤りを悟りて分度を守らば、有余おのづから有りて、人を救ふに余あらん。
夫れ湯船は大人は屈んで肩につき、小人は立ちて肩につくを中庸とす。百石の者は五十石に屈んで五十石の有余を譲り、千石の者は五百石に屈んで五百石の有余を譲る。是を中庸と云ふべし。若し一郷の内、一人、此の道を蹈む者あらば、人々、皆分を越ゆるの誤りを悟らん。人々、皆此の誤りを悟り、分度を守りて克く譲らば、一郷、富栄にして和順ならん事、疑ひなし。古語に『一家、仁なれば、一国、仁に興る[1]。』といへり。能く思ふべき事なり。
夫れ仁は人道の極みなり。儒者の説、甚だむづかしくして用をなさず。近く譬ふれば、此の湯船の湯のごとし。是を手にて己が方に搔けば、湯、我が方に来たるがごとくなれども、皆向かうの方へ流れ帰るなり。是を向かうの方へ押す時は、湯、向かうの方へ行くがごとくなれども、又我が方へ流れ帰る。少なく押せば少なく帰り、強く押せば強く帰る。是れ天理なり。夫れ仁と云ひ、義と云ふは、向かうへ押す時の名なり。我が方へ搔く時は、不仁となり、不義となる。慎まざるべけんや。古語に『己に克ちて礼に復れば、天下、仁に帰す。仁をなす、己による。人によらんや[2]。」とあり。己とは、手の我が方へ向く時の名なり。礼とは、我が手を先の方に向くる時の名なり。我が方へ向けては、仁を説くも、義を演ぶるも、皆無益なり。能く思ふべし。夫れ人体の組み立てを見よ。人の手は我が方へ向きて、我が為に弁利に出来たれども、又向かうの方へも向き、向かうへ押すべく出来たり。是れ人道の元なり。鳥獣の手は是に反して、只我が方へ向きて、我に弁利なるのみ。されば人たる者は、他の為に押すの道あり。然るを我が身の方に手を向け、我が為に取る事のみを勤めて、先の方に手を向けて他の為に押す事を忘るるは、人にして人にあらず。則ち禽獣なり。豈に恥づかしからざらんや。只恥づかしきのみならず。天理に違ふが故に、終に滅亡す。故に我、常に『奪ふに益なく、譲るに益あり。譲るに益あり、奪ふに益なし。是れ則ち天理なり』と教ふ。能く能く玩味すべし。」
(二宮翁夜話 巻之一 終)
翁、湯桁にゐまして諭して曰はく、「夫れ世の中、汝等がごとき富者にして、皆足る事を知らず、飽くまでも利を貪り、不足を唱ふるは、大人の、この湯船の中に立ちて、屈まずして、湯を肩に掛けて、『湯船、はなはだ浅し。膝にだも満たず』と罵るがごとし。若し湯をして望みに任せば、小人、童子のごときは入浴する事あたはざるべし。是れ湯船の浅きにはあらずして、己が屈まざるの過ちなり。能く此の過ちを知りて屈まば、湯、忽ち肩に満ちて、おのづから十分ならん。何ぞ他に求むる事をせん。世間、富者の不足を唱ふる、何ぞ是に異ならん。夫れ分限を守らざれば、千万石といへども不足なり。一度、過分の誤りを悟りて分度を守らば、有余おのづから有りて、人を救ふに余あらん。
夫れ湯船は大人は屈んで肩につき、小人は立ちて肩につくを中庸とす。百石の者は五十石に屈んで五十石の有余を譲り、千石の者は五百石に屈んで五百石の有余を譲る。是を中庸と云ふべし。若し一郷の内、一人、此の道を蹈む者あらば、人々、皆分を越ゆるの誤りを悟らん。人々、皆此の誤りを悟り、分度を守りて克く譲らば、一郷、富栄にして和順ならん事、疑ひなし。古語に『一家、仁なれば、一国、仁に興る[1]。』といへり。能く思ふべき事なり。
夫れ仁は人道の極みなり。儒者の説、甚だむづかしくして用をなさず。近く譬ふれば、此の湯船の湯のごとし。是を手にて己が方に搔けば、湯、我が方に来たるがごとくなれども、皆向かうの方へ流れ帰るなり。是を向かうの方へ押す時は、湯、向かうの方へ行くがごとくなれども、又我が方へ流れ帰る。少なく押せば少なく帰り、強く押せば強く帰る。是れ天理なり。夫れ仁と云ひ、義と云ふは、向かうへ押す時の名なり。我が方へ搔く時は、不仁となり、不義となる。慎まざるべけんや。古語に『己に克ちて礼に復れば、天下、仁に帰す。仁をなす、己による。人によらんや[2]。」とあり。己とは、手の我が方へ向く時の名なり。礼とは、我が手を先の方に向くる時の名なり。我が方へ向けては、仁を説くも、義を演ぶるも、皆無益なり。能く思ふべし。夫れ人体の組み立てを見よ。人の手は我が方へ向きて、我が為に弁利に出来たれども、又向かうの方へも向き、向かうへ押すべく出来たり。是れ人道の元なり。鳥獣の手は是に反して、只我が方へ向きて、我に弁利なるのみ。されば人たる者は、他の為に押すの道あり。然るを我が身の方に手を向け、我が為に取る事のみを勤めて、先の方に手を向けて他の為に押す事を忘るるは、人にして人にあらず。則ち禽獣なり。豈に恥づかしからざらんや。只恥づかしきのみならず。天理に違ふが故に、終に滅亡す。故に我、常に『奪ふに益なく、譲るに益あり。譲るに益あり、奪ふに益なし。是れ則ち天理なり』と教ふ。能く能く玩味すべし。」
(二宮翁夜話 巻之一 終)
[1]
『大学章句』伝九章の「一家仁、一国興仁。」を踏まえた言葉。
[2]
『論語』顔淵篇の「克己復礼為仁、一日克己復礼、天下帰仁焉。為仁由己。而由人乎哉。」を踏まえた言葉。
『二宮尊徳全集』第36巻を底本とした。ただし、次の方針に基づき、本サイトの管理人が独自に修訂を施してある。◆漢文以外は、すべて横書きに改めた。◆旧字体は、新字体に改めた。◆仮名遣いは原則として旧仮名遣いのままとしたが、現代的な文語文法に基づき、適宜修正した。(例:飢へ→飢ゑ、全ふ→全う)◆送り仮名、句読点、括弧、改行は、現代的な感覚に即して大幅に改めた。(例:譬ば→譬へば、曰……→曰はく、「……。」) ◆振り仮名は、推測に基づき、適宜施した。◆助動詞および助詞は、仮名に開いた。(例:也→なり、如し→ごとし)◆「ゝ」や「〱」は原則として元の仮名に戻し、「〻」は削った。◆漢文には適宜訓点を補った。
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