『二宮翁夜話』第1巻 第8章
翁曰はく世の中に誠の大道は…
原文
翁曰はく、「世の中に誠の大道は只一筋なり。神といひ、儒といひ、仏と云ひ、皆同じく大道に入るべき入口の名なり。或いは天台といひ、真言といひ、法華といひ、禅と云ふも、同じく入口の小路の名なり。
夫れ何の教へ、何の宗旨といふがごときは、譬へば爰に清水あり、此の水にて藍を解きて染むるを紺やと云ひ、此の水にて紫をときて染むるを紫やといふがごとし。其の元は一つの清水なり。紫屋にては『我が紫の妙なる事、天下の反物、染むる物として紫ならざるはなし』とほこり、紺屋にては『我が藍の徳たる、洪大無辺なり。故に一度此の瓶に入れば、物として紺とならざるはなし』と云ふがごとし。夫れが為に、染められたる紺や宗の人は『我が宗の藍より外に有り難き物はなし』と思ひ、紫宗の者は『我が宗の紫ほど尊き物はなし』と云ふに同じ。是れ皆所謂三界城内を、躊躇して出づる事あたはざる者なり。夫れ紫も藍も、大地に打ちこぼす時は、又元のごとく紫も藍も皆脱して本然の清水に帰るなり。そのごとく、神、儒、仏を初め、心学、性学等、枚挙に暇あらざるも、皆大道の入口の名なり。此の入口、幾箇あるも、至る処は必ず一つの誠の道なり。是を『別々に道あり』と思ふは迷ひなり。『別々なり』と教ふるは邪説なり。譬へば不士山に登るがごとし。先達に依りて吉田より登るあり、須走より登るあり、須山より登るありといへども、其の登る処の絶頂に至れば一つなり。斯くのごとくならざれば、真の大道と云ふべからず。されども『誠の道に導く』と云ひて、誠の道に至らず、無益の枝道に引き入るるを、是を邪教と云ふ。誠の道に入らんとして、邪説に欺かれて枝道に入り、又自ら迷ひて邪路に陥るも、世の中少なからず。慎まずんばあるべからず。」
夫れ何の教へ、何の宗旨といふがごときは、譬へば爰に清水あり、此の水にて藍を解きて染むるを紺やと云ひ、此の水にて紫をときて染むるを紫やといふがごとし。其の元は一つの清水なり。紫屋にては『我が紫の妙なる事、天下の反物、染むる物として紫ならざるはなし』とほこり、紺屋にては『我が藍の徳たる、洪大無辺なり。故に一度此の瓶に入れば、物として紺とならざるはなし』と云ふがごとし。夫れが為に、染められたる紺や宗の人は『我が宗の藍より外に有り難き物はなし』と思ひ、紫宗の者は『我が宗の紫ほど尊き物はなし』と云ふに同じ。是れ皆所謂三界城内を、躊躇して出づる事あたはざる者なり。夫れ紫も藍も、大地に打ちこぼす時は、又元のごとく紫も藍も皆脱して本然の清水に帰るなり。そのごとく、神、儒、仏を初め、心学、性学等、枚挙に暇あらざるも、皆大道の入口の名なり。此の入口、幾箇あるも、至る処は必ず一つの誠の道なり。是を『別々に道あり』と思ふは迷ひなり。『別々なり』と教ふるは邪説なり。譬へば不士山に登るがごとし。先達に依りて吉田より登るあり、須走より登るあり、須山より登るありといへども、其の登る処の絶頂に至れば一つなり。斯くのごとくならざれば、真の大道と云ふべからず。されども『誠の道に導く』と云ひて、誠の道に至らず、無益の枝道に引き入るるを、是を邪教と云ふ。誠の道に入らんとして、邪説に欺かれて枝道に入り、又自ら迷ひて邪路に陥るも、世の中少なからず。慎まずんばあるべからず。」
『二宮尊徳全集』第36巻を底本とした。ただし、次の方針に基づき、本サイトの管理人が独自に修訂を施してある。◆漢文以外は、すべて横書きに改めた。◆旧字体は、新字体に改めた。◆仮名遣いは原則として旧仮名遣いのままとしたが、現代的な文語文法に基づき、適宜修正した。(例:飢へ→飢ゑ、全ふ→全う)◆送り仮名、句読点、括弧、改行は、現代的な感覚に即して大幅に改めた。(例:譬ば→譬へば、曰……→曰はく、「……。」) ◆振り仮名は、推測に基づき、適宜施した。◆助動詞および助詞は、仮名に開いた。(例:也→なり、如し→ごとし)◆「ゝ」や「〱」は原則として元の仮名に戻し、「〻」は削った。◆漢文には適宜訓点を補った。
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