『報徳記』第1巻 第3章
小田原侯先生を抜擢して分知宇津家の釆邑を興復せしむ
原文
小田原侯先生を抜擢して分知宇津家の釆邑を興復せしむ
于時、大久保候、天下の執権職として流弊を矯め、汚俗を一洗し、善政を布き、民を安んずるの忠心を懐き、一世、国家の為に心力を尽くしたまひ、人、賢明を以て之を称す。田間、潜竜の二宮あることを聞きたまひ、大いに悦びて之を挙げ、国政を任じ、安民の道を開かんと欲し、群臣に計りたまふ。国風、賢愚を選まず、位禄の高下を以て区別を厳にし、高禄の臣は卑格の臣を見ること奴僕のごとく、位ある臣は愚なりといへども、衆、之を敬し、才徳ありといへども、位格卑下なれば、諸人、之を軽んず。治平の流俗、習ひ、性となれり。一藩すら斯くのごとし。況んや下民に於けるをや。群臣、「君命なりといへども、士民を挙げて群臣の上に置き、国政を任じたまふこと、時勢の服せざる所なり。仮令二宮、賢なりといへども、群臣服せざる時は必ず国の災ひを生ぜんこと、恐るべし。君、深く之を慮りたまへ。」と言ふもの多し。君公、人情の誣ふべからず、挙賢の道、俄かに行はれ難きを歎息し、頻りに登用の道を深慮したまふに、「惣じて当時の人情、位禄の高下に拘泥し、貴賢の道なしといへども、他の功績は推すべからず。其の有功に服すること、是れ古今の人情なり。然らば二宮に命ずるに、諸人の力に及ばざる所を以てせば、彼、必ず其の功を遂げん。其の功を以て群臣の僻心を除き、国家を任ぜば、誰か又不平を発せんや。事、迂遠に似たりといへども、全功をなさん事、必ず斯にあり。」と。
斯に旗下、宇津某は大久保家の分家にして、釆邑[1]四千石、下野の国芳賀郡、物井、横田、東沼の三邑、是なり。土地、至りて磽薄にして、五穀乏しく、人気、亦之に准じ、放僻邪肆、無頼遊惰なるが故に、元禄年中までは戸数四百五拾軒なりしが、連年離散のもの多く、文政度に至りては僅かに百四、五拾軒を残せり。互ひに利を争ひ、争論、訴訟、絶ゆることなく、動すれば相闘ふに至れり。故に衰貧極まり、渺茫として、民家、狐狸の住居となるもの多く、収納、中古、四千苞を納めしに、僅かに八百苞を納む。宇津家の艱難も亦極まれり。
小田原侯、深く之を憂ひ、此の民を導き、勧農に趣かしめ、再復の政を布かんとして厚く心思を労したまひ、群臣に選び、当器ものに命じ、野州桜町興復の事を任じ、入費幾千金を下して其の成功を促がしたまふに、一度其の地に臨めば、佞奸の為に欺かれ、或いは処置、其の度を失ひ、遂に他国へ走り、或いは逐はれ、小田原へ帰り、其の罪を得るもの既に数人に及べり。群臣、手を束ねて又更に此の事に任ぜんと云ふものなし。公、大いにこれを悔い、尋常の及ぶ所に非ざることを歎じたまふ。今、此の土地をして二宮に再興せしめば、不凡の傑出、必ず其の功を成さん事、目前にあり。群臣手を束ぬるの難場をして、治平再栄の道を立つる時は、不世出の賢なること、論を待たずして明らかなるべし。其の時に至り、小田原十一万石をして富国永安の政を任ぜんに、誰か服せざるものあらん。嗚呼、然なりと独り心を決したまひ、令を下して、先生に此の事を任ず。先生、辞して曰はく、「卑人、何ぞ此くのごとき大業を為すことを得んや。某、農家に生まれ、極貧に長となり、自ら農具を握りて稼穡を勤め、祖先の余徳に依りて廃家を挙ぐることを得るのみ。何を以て国を興し、民を安んずるの大道を知らんや。君命重しといへども、身の不肖を省るに、何ぞ此の命に当たらんや。」と受けず。使者、止む事を得ず、復命す。君公、益其の賢なることを察したまひ、礼を厚くし、言を尽くして再三、命を下したまふ。先生、固辞して随はざること、三年に及べり。君、懇命を下して止まず。是に於いて、先生、大いに君の仁心を感じ、対へて曰はく、「某、数度の命に応ぜず。君、之に令すること已に三年、辞する所を知らず。止む事を得ずんば、彼の地に至り、土地、人民、衰廃の根元、再復成不成の道を熟視し、然る後、受命の有無を決すべし。今、予め其の命に随ふこと能はず。」と云ふ。使者、此の言を以て復命す。君公、悦びて其の土地見分を命じたまふ。時に文政四(巳)年某月、先生、小田原を発し、遙かに下野国桜町に至り、毎戸に臨み、其の貧富を察し、田野に往きて其の肥磽を鑑み、人民の勤惰を察し、水理の難易を計り、遠く往古を探り、近く目今の風俗を観察し、数十日にして風土、民情、興廃成不成の理、既に胸臆に了然たり。小田原に帰り、言上して曰はく、「君、某の不肖を察したまはず、宇津家の釆邑興復の事を命ず。其の任にあらざるを以て固辞すと雖も、敢へて之を許したまはず。止む事を得ず、彼の地に至り、土地と民情とを察し、再復の事を考ふるに、土地瘠薄にして人民の無頼怠惰も亦極まる。然りと雖も、之を振起するに術を以てし、邑民旧染の汚俗を革め、専ら力を農事に尽くす時は再興の道なきにあらず。而して仁政行はれざる時は、仮令年々四千石の貢税を免ずといへども彼の貧困は免ることあるべからず。譬へば都下に於いて巣鴨の地と日本橋の地のごとし。日本橋の土地は屋賃如何程貴しといへども、売買の利、厚きが故に、人、競ひて居住し、富優を得。巣鴨のごときに至りては、金銀融通、売利薄きが故に、屋賃なしといへども、人、之を望まず、又貧窮を免れず。土地は貢税多しと雖も、民、其の益多きが故に繁栄し、下国は貢税なしといへども、田産薄きが故に其の艱難を免れ難し。是れ土地の厚薄の致す所なり。然して此くのごとき下国をして、上国と共に栄えしめんと欲せば、必ず仁政にあらざれば能はず。如何となれば、温泉は人力を待たずして周年温かなり。風呂は人力を以て焼くが故に暖かなり。暫時も火を去る時は、忽然として冷水となる。上国は温泉のごとく、下国は風呂に似たり。故に仁術を行ふ時は栄え、仁政なき時は衰ふ。今、野州桜町の衰廃を救ひ、永く民を安ずるの道は他無し。厚く仁を施し、其の艱苦を去りて安栄に導き、大いに恩沢を布きて其の無頼の人情を改め、専ら土地の貴き所以を教へ、力を田圃に尽くさしむるにあり。然して此の興復の用度、幾千万金なるや、予め其の数を定め難し。前々、君、彼の土地再復を命ずるに許多の財を下したまふ。是を以て其の事成らず。以後、之を興復せんに、必ず一金も下したまふことなかれ。」と。公曰はく、「汝の言ふ所、至道といふべし。然れども、廃亡を挙ぐるに財を用うれども[2]猶ほ興らず。今、財なくして之を挙ぐるの道、如何。」先生、対へて曰はく、「君、財を下せば、邑宰、村民、共に此の財に心を奪はれ、互ひに財の手に入れんことを欲し、下民は邑宰の私を論じ、宰官のものは下民の私曲のみを憂ふ。互ひに其の非を論じ、其の利を貪り、終に興復の道を失ひ、弥々人情を破り、事、廃するに至れり。是れ用財を下したまふの災ひなり。」公曰はく、「善きかな、汝の言。財無くして廃亡を挙ぐること、其の道、如何。」対へて曰はく、「荒蕪を開くに荒蕪の力を以てし、衰貧を救ふに衰貧の力を以てす。何ぞ財を用ゐんや。」公曰はく、「荒蕪を起こさんに荒蕪の力を以てする事、如何。」対へて曰はく、「荒田壱反を開き、其の産米、壱石有らんに、五斗を以て食となし、五斗を以て来年の開田料となし、年々此くのごとくにして止まざれば、他の財を用ゐずして何億万の荒蕪と雖も開き尽すべし。吾が神州、往古開闢以来、幾億万の開田、其の始め、異国の金銀を借りて起こしたるには非ず。必ず一鍬よりして此くのごとく開けたるなり。今、荒蕪を挙げんとして金銀を求むるは、其の本を知らざるが故なり。苟くも往古の大道を以て荒蕪を挙げんに、何の難きことか、之あらん。抑々宇津家の釆邑、四千石なりといへども、実事、納むる所の租税は僅か八百苞のみ。是れ全く四千石の虚名ありて、実は八百石の禄なり。此の八百苞を以て再復までの分限と定め、其の余を求めず。艱難に素して艱難に行ひ、生地の分は吾が邦の開けたるがごとく、其の余の荒蕪は未だ開けざる蝦夷のごとくなれば、一金の用財も下したまはず、荒蕪を開き、邑民を安んずるに荒蕪の地を以て、某に任じたまはば、十年にして必ず功を奏すべし。然れども爰に一つの難事あり。如何ともすべからず。」公曰はく、「其の難事とは如何。」対へて曰はく、「彼の土地、如何なる難場なりと雖も、前段の道を以て興復せんこと難きにあらず。如何せん、其の功を奏するに至りて二千石の不足を生ぜり。荒蕪の儘に置く時は四千石の名あり。今、千辛万苦を尽くし、幾千万の財を布き、功を成すに至りては、四千石にあらずして、全く二千石となる。然らば則ち再復せざるの愈れるに如かざるなり。」公曰はく、「再興成就して、二千石を減ずる者、如何。」対へて曰はく、「他なし。瘠薄の地なるが故なり。薄地の一反は、必ず二反の地にあらざれば、民、飢渇を免れず。然るに彼の地、縄の緩みなく、一反は一反なり。此の故に邑民衰亡の禍、皆是より起これり。一たび之を旧復すと雖も、又数年ならずして亡邑とならんこと必せり。果して然らば、何ぞ興復の益あらんや。故に之を興し、此の民を安んぜんとせば、二反を以て一反とせざるを得ず。然らば宇津家禄俸の半ばを減じて二千石となり、公私の用度、不足なれば必ず民に命じて其の不足を補はしめん。苟くも此くのごとくならば、再度の衰廃立ちどころに至らん。君、無益の地に心力を労したまはんよりは、寧ろ四千石の名実共に全き所の土地を分かち、之を与へ玉はんには如かざるなり。」公曰はく、「善きかな、汝の言。至れるかな、汝の計る所。今、貢租至当の地を分かたんこと難きに非ずと雖も、廃衰の地を挙げずして弥々不毛の地に帰せしむることは予が本意にあらず。是の故に、今、汝の言に由りて彼の地再興の業を委任す。内外共に汝一人の処分たるべし。汝憂ふる所の二千石減少の数に至りては、成功の後、我、必ず之を補ひ、四千石となさん。汝、憂ふることなかれ。彼の地に至り、身を愛し、国家の為に弥其志を励まし、貧民を安撫し、廃亡を挙げ、我が苦心をも安んぜよ。」と命じたまふ。先生、謹みて其の命を受けたり。嗚呼、君、君たり。臣、臣たり。実に明君賢臣、希世の遭遇と謂ふべし。
于時、大久保候、天下の執権職として流弊を矯め、汚俗を一洗し、善政を布き、民を安んずるの忠心を懐き、一世、国家の為に心力を尽くしたまひ、人、賢明を以て之を称す。田間、潜竜の二宮あることを聞きたまひ、大いに悦びて之を挙げ、国政を任じ、安民の道を開かんと欲し、群臣に計りたまふ。国風、賢愚を選まず、位禄の高下を以て区別を厳にし、高禄の臣は卑格の臣を見ること奴僕のごとく、位ある臣は愚なりといへども、衆、之を敬し、才徳ありといへども、位格卑下なれば、諸人、之を軽んず。治平の流俗、習ひ、性となれり。一藩すら斯くのごとし。況んや下民に於けるをや。群臣、「君命なりといへども、士民を挙げて群臣の上に置き、国政を任じたまふこと、時勢の服せざる所なり。仮令二宮、賢なりといへども、群臣服せざる時は必ず国の災ひを生ぜんこと、恐るべし。君、深く之を慮りたまへ。」と言ふもの多し。君公、人情の誣ふべからず、挙賢の道、俄かに行はれ難きを歎息し、頻りに登用の道を深慮したまふに、「惣じて当時の人情、位禄の高下に拘泥し、貴賢の道なしといへども、他の功績は推すべからず。其の有功に服すること、是れ古今の人情なり。然らば二宮に命ずるに、諸人の力に及ばざる所を以てせば、彼、必ず其の功を遂げん。其の功を以て群臣の僻心を除き、国家を任ぜば、誰か又不平を発せんや。事、迂遠に似たりといへども、全功をなさん事、必ず斯にあり。」と。
斯に旗下、宇津某は大久保家の分家にして、釆邑[1]四千石、下野の国芳賀郡、物井、横田、東沼の三邑、是なり。土地、至りて磽薄にして、五穀乏しく、人気、亦之に准じ、放僻邪肆、無頼遊惰なるが故に、元禄年中までは戸数四百五拾軒なりしが、連年離散のもの多く、文政度に至りては僅かに百四、五拾軒を残せり。互ひに利を争ひ、争論、訴訟、絶ゆることなく、動すれば相闘ふに至れり。故に衰貧極まり、渺茫として、民家、狐狸の住居となるもの多く、収納、中古、四千苞を納めしに、僅かに八百苞を納む。宇津家の艱難も亦極まれり。
小田原侯、深く之を憂ひ、此の民を導き、勧農に趣かしめ、再復の政を布かんとして厚く心思を労したまひ、群臣に選び、当器ものに命じ、野州桜町興復の事を任じ、入費幾千金を下して其の成功を促がしたまふに、一度其の地に臨めば、佞奸の為に欺かれ、或いは処置、其の度を失ひ、遂に他国へ走り、或いは逐はれ、小田原へ帰り、其の罪を得るもの既に数人に及べり。群臣、手を束ねて又更に此の事に任ぜんと云ふものなし。公、大いにこれを悔い、尋常の及ぶ所に非ざることを歎じたまふ。今、此の土地をして二宮に再興せしめば、不凡の傑出、必ず其の功を成さん事、目前にあり。群臣手を束ぬるの難場をして、治平再栄の道を立つる時は、不世出の賢なること、論を待たずして明らかなるべし。其の時に至り、小田原十一万石をして富国永安の政を任ぜんに、誰か服せざるものあらん。嗚呼、然なりと独り心を決したまひ、令を下して、先生に此の事を任ず。先生、辞して曰はく、「卑人、何ぞ此くのごとき大業を為すことを得んや。某、農家に生まれ、極貧に長となり、自ら農具を握りて稼穡を勤め、祖先の余徳に依りて廃家を挙ぐることを得るのみ。何を以て国を興し、民を安んずるの大道を知らんや。君命重しといへども、身の不肖を省るに、何ぞ此の命に当たらんや。」と受けず。使者、止む事を得ず、復命す。君公、益其の賢なることを察したまひ、礼を厚くし、言を尽くして再三、命を下したまふ。先生、固辞して随はざること、三年に及べり。君、懇命を下して止まず。是に於いて、先生、大いに君の仁心を感じ、対へて曰はく、「某、数度の命に応ぜず。君、之に令すること已に三年、辞する所を知らず。止む事を得ずんば、彼の地に至り、土地、人民、衰廃の根元、再復成不成の道を熟視し、然る後、受命の有無を決すべし。今、予め其の命に随ふこと能はず。」と云ふ。使者、此の言を以て復命す。君公、悦びて其の土地見分を命じたまふ。時に文政四(巳)年某月、先生、小田原を発し、遙かに下野国桜町に至り、毎戸に臨み、其の貧富を察し、田野に往きて其の肥磽を鑑み、人民の勤惰を察し、水理の難易を計り、遠く往古を探り、近く目今の風俗を観察し、数十日にして風土、民情、興廃成不成の理、既に胸臆に了然たり。小田原に帰り、言上して曰はく、「君、某の不肖を察したまはず、宇津家の釆邑興復の事を命ず。其の任にあらざるを以て固辞すと雖も、敢へて之を許したまはず。止む事を得ず、彼の地に至り、土地と民情とを察し、再復の事を考ふるに、土地瘠薄にして人民の無頼怠惰も亦極まる。然りと雖も、之を振起するに術を以てし、邑民旧染の汚俗を革め、専ら力を農事に尽くす時は再興の道なきにあらず。而して仁政行はれざる時は、仮令年々四千石の貢税を免ずといへども彼の貧困は免ることあるべからず。譬へば都下に於いて巣鴨の地と日本橋の地のごとし。日本橋の土地は屋賃如何程貴しといへども、売買の利、厚きが故に、人、競ひて居住し、富優を得。巣鴨のごときに至りては、金銀融通、売利薄きが故に、屋賃なしといへども、人、之を望まず、又貧窮を免れず。土地は貢税多しと雖も、民、其の益多きが故に繁栄し、下国は貢税なしといへども、田産薄きが故に其の艱難を免れ難し。是れ土地の厚薄の致す所なり。然して此くのごとき下国をして、上国と共に栄えしめんと欲せば、必ず仁政にあらざれば能はず。如何となれば、温泉は人力を待たずして周年温かなり。風呂は人力を以て焼くが故に暖かなり。暫時も火を去る時は、忽然として冷水となる。上国は温泉のごとく、下国は風呂に似たり。故に仁術を行ふ時は栄え、仁政なき時は衰ふ。今、野州桜町の衰廃を救ひ、永く民を安ずるの道は他無し。厚く仁を施し、其の艱苦を去りて安栄に導き、大いに恩沢を布きて其の無頼の人情を改め、専ら土地の貴き所以を教へ、力を田圃に尽くさしむるにあり。然して此の興復の用度、幾千万金なるや、予め其の数を定め難し。前々、君、彼の土地再復を命ずるに許多の財を下したまふ。是を以て其の事成らず。以後、之を興復せんに、必ず一金も下したまふことなかれ。」と。公曰はく、「汝の言ふ所、至道といふべし。然れども、廃亡を挙ぐるに財を用うれども[2]猶ほ興らず。今、財なくして之を挙ぐるの道、如何。」先生、対へて曰はく、「君、財を下せば、邑宰、村民、共に此の財に心を奪はれ、互ひに財の手に入れんことを欲し、下民は邑宰の私を論じ、宰官のものは下民の私曲のみを憂ふ。互ひに其の非を論じ、其の利を貪り、終に興復の道を失ひ、弥々人情を破り、事、廃するに至れり。是れ用財を下したまふの災ひなり。」公曰はく、「善きかな、汝の言。財無くして廃亡を挙ぐること、其の道、如何。」対へて曰はく、「荒蕪を開くに荒蕪の力を以てし、衰貧を救ふに衰貧の力を以てす。何ぞ財を用ゐんや。」公曰はく、「荒蕪を起こさんに荒蕪の力を以てする事、如何。」対へて曰はく、「荒田壱反を開き、其の産米、壱石有らんに、五斗を以て食となし、五斗を以て来年の開田料となし、年々此くのごとくにして止まざれば、他の財を用ゐずして何億万の荒蕪と雖も開き尽すべし。吾が神州、往古開闢以来、幾億万の開田、其の始め、異国の金銀を借りて起こしたるには非ず。必ず一鍬よりして此くのごとく開けたるなり。今、荒蕪を挙げんとして金銀を求むるは、其の本を知らざるが故なり。苟くも往古の大道を以て荒蕪を挙げんに、何の難きことか、之あらん。抑々宇津家の釆邑、四千石なりといへども、実事、納むる所の租税は僅か八百苞のみ。是れ全く四千石の虚名ありて、実は八百石の禄なり。此の八百苞を以て再復までの分限と定め、其の余を求めず。艱難に素して艱難に行ひ、生地の分は吾が邦の開けたるがごとく、其の余の荒蕪は未だ開けざる蝦夷のごとくなれば、一金の用財も下したまはず、荒蕪を開き、邑民を安んずるに荒蕪の地を以て、某に任じたまはば、十年にして必ず功を奏すべし。然れども爰に一つの難事あり。如何ともすべからず。」公曰はく、「其の難事とは如何。」対へて曰はく、「彼の土地、如何なる難場なりと雖も、前段の道を以て興復せんこと難きにあらず。如何せん、其の功を奏するに至りて二千石の不足を生ぜり。荒蕪の儘に置く時は四千石の名あり。今、千辛万苦を尽くし、幾千万の財を布き、功を成すに至りては、四千石にあらずして、全く二千石となる。然らば則ち再復せざるの愈れるに如かざるなり。」公曰はく、「再興成就して、二千石を減ずる者、如何。」対へて曰はく、「他なし。瘠薄の地なるが故なり。薄地の一反は、必ず二反の地にあらざれば、民、飢渇を免れず。然るに彼の地、縄の緩みなく、一反は一反なり。此の故に邑民衰亡の禍、皆是より起これり。一たび之を旧復すと雖も、又数年ならずして亡邑とならんこと必せり。果して然らば、何ぞ興復の益あらんや。故に之を興し、此の民を安んぜんとせば、二反を以て一反とせざるを得ず。然らば宇津家禄俸の半ばを減じて二千石となり、公私の用度、不足なれば必ず民に命じて其の不足を補はしめん。苟くも此くのごとくならば、再度の衰廃立ちどころに至らん。君、無益の地に心力を労したまはんよりは、寧ろ四千石の名実共に全き所の土地を分かち、之を与へ玉はんには如かざるなり。」公曰はく、「善きかな、汝の言。至れるかな、汝の計る所。今、貢租至当の地を分かたんこと難きに非ずと雖も、廃衰の地を挙げずして弥々不毛の地に帰せしむることは予が本意にあらず。是の故に、今、汝の言に由りて彼の地再興の業を委任す。内外共に汝一人の処分たるべし。汝憂ふる所の二千石減少の数に至りては、成功の後、我、必ず之を補ひ、四千石となさん。汝、憂ふることなかれ。彼の地に至り、身を愛し、国家の為に弥其志を励まし、貧民を安撫し、廃亡を挙げ、我が苦心をも安んぜよ。」と命じたまふ。先生、謹みて其の命を受けたり。嗚呼、君、君たり。臣、臣たり。実に明君賢臣、希世の遭遇と謂ふべし。
[1]
「釆」の字は原文まま。「采」の誤植か。
[2]
「用うれども」は原文まま。
『二宮尊徳全集』第36巻を底本とした。ただし、次の方針に基づき、本サイトの管理人が独自に修訂を施してある。◆漢文以外は、すべて横書きに改めた。◆旧字体は、新字体に改めた。◆仮名遣いは原則として旧仮名遣いのままとしたが、現代的な文語文法に基づき、適宜修正した。(例:飢へ→飢ゑ、全ふ→全う)◆送り仮名、句読点、括弧、改行は、現代的な感覚に即して大幅に改めた。(例:譬ば→譬へば、曰……→曰はく、「……。」) ◆振り仮名は、推測に基づき、適宜施した。◆助動詞および助詞は、仮名に開いた。(例:也→なり、如し→ごとし)◆「ゝ」や「〱」は原則として元の仮名に戻し、「〻」は削った。◆漢文には適宜訓点を補った。
前のページ
次のページ