『報徳記』第1巻 第5章
先生桜町陣屋にありて艱難に素し興復の道を行ふ
原文
文政五(壬)午年、先生、始めて桜町に至る。陣屋あり。此の地、元来、小田原侯の領地なり。往年、此の三邑、四千石を分かち、以て宇津家の釆邑となす。桜町陣屋は小田原領分の時の陣屋なり。屋根破れ、柱腐朽し、四壁皆くづれ、軒下より草木生ひ繁り、狐狸豬鹿、此に居る。邑中、之に准じ、田圃、三分が二は茫々たる荒野となり、僅かに民家近傍のみ耕田存すと雖も、毎戸惰農にして、百草、其の上に蔓り、諸作は其の下に伏せり。元禄度に当たり、高四千石、民家四百四十戸、租税三千百苞余りを納む。然るに衰廃極まり、方今の貢税、僅かに八百苞、戸数、百四拾軒余りに減少し、家々、極貧にして衣食足らず、身に敝衣を纏ひ、口に糟糠を食らひ、耕耘の力、徒らに小利を争ひ、公事訴訟、止む時なく、男女、酒を貪り、博奕に流れ、私欲の外、他念あることなく、人の善事を悪み、人の悪事、災難を喜び、他を苦しめ、己を利せんことを計り、里正は役威を借り、細民を虐げ、細民は之を憤り、互に仇讐の思ひをなし、稍損益を争ふに至りては忽ち相闘ふに至れり。是より先、小田原侯、群臣に撰み、此の地再復の命を下し来たりて宰たるもの、四、五輩に及べり。手を下す所なく、或いは奸民の為に陥られ、又は衆民に逐はれ、数月も此の地に留まること能はず。土地の衰廃、人気の汚悪、民家の貧窮、実に極まれりと謂ふべし。生生、断然として此くのごとき難地に臨み、先づ民屋に住し、陣屋の草葉を除き、大破を補理して之に移住し、三邑旧復の規画を立て、鶏鳴より初夜に至るまで、日日廻歩、一戸ごとに臨みて、人民の艱難、善悪を察し、農事の勤惰を弁じ、田圃の経界を察し、荒蕪の広狭を計り、土地の肥饒、流水の便利を考へ、大雨、暴風、炎暑、厳寒といへども、一日も廻歩を止めず、四千石の地、一戸、尺地といへども胸中に了然たらざることなく、然る後、善人を賞し、悪人を諭し、之を善に導き、貧窮を撫育し、用水を掘り、冷水を抜き、勧農の道を教へ、荒蕪を開き、諸民安堵の良法を行ふ。自ら艱苦に処し、衣は綿衣、身を掩ふに足るを期し、用うべからざるに至らざれば別衣を製せず、食は一汁の外を食せず、邑中に出でて食するに、冷飯に水を濺ぎ、味噌を嘗めて食するのみ。邑民の薦食、一物も食せず。曰はく、「汝等、惰農の為に此くのごとく困窮に及べり。予、千辛万苦を尽くし、汝等を安んじ、汝等の衣食足る時に至らざれば、予も亦衣食を安んぜず。」と。終日聊か休まず、夜に至り、陣屋に帰り、寝ぬること僅かに二時に過ぎずして起き、前日に明日の為すべき事を考へ、万事の処置、少も遅留することなく、流水の卑きに下るがごとし。其の神速なること、衆、皆常に驚歎せり。此くのごとき艱難、丹誠、枚挙すること能はず。至誠の感ずる所、天地も之が為に動き、鬼神も感応を下したまはん。
然るに古より以来、凡情の漂ふ所、只目前に在りて遠きを見ることあたはず。眼前の損益を争ひ、人の功を嫉み、善を防ぎ、悪に流るるは小人の常なるが故に、邑中の奸智、佞悪のもの、表は先生の指揮に随ふがごとくにして、内心、之を一事手を下すごとに故障を訴へ、或いは愚民を煽動し、其の事業の破壊に至らんことを謀り、荒蕪を開かんとすれば、「在来の田圃、猶ほ耕耘の力足らず。何を以てか開田を耕すことを得んや。」と之を妨ぐ。加賀、越後、両国の来民を撫し、家を作り、田を開き、器財、農具、衣食を与へ、邑人となせば、氓民と之を賤しめ、之を侮慢し、謂はれなき難条を設け、之を苦しめ、他邦に走らしめ、生国を去る。無頼のものを此の村民となす。故に「早くも又走れり。」と嘲る経界を正さんとすれば、「古来の水帳、既に失ひたり。」と奸人の家に之を隠し置き、之を出ださずして、経界を正すことを得ざらしむ。強者は弱者を凌ぎ、良田を聊かの貸金の為に奪ひ、貧者、終に氓民となる。荒蕪の田圃を開き、私に之を耕し、貢を納めずして其の実りを我が物とし、貢を出だせし田圃は糞培せずして不作せしめ、「土地悪しきが為に斯くのごとし。貢を減じたまはずんば、百姓離散に及ばん。」と訴ふ。里正は細民の無頼を訴へ、細民は里正の私曲を訴ふ。奸人、表に正直を飾り、窃かに愚民を誑かし、種々の出訴を設け、日々陣屋に出でて紛冗動揺せり。此くのごとくすれば、先生、此の事に労し、邑中旧復の実業に暇あらざるを計ればなり。先生、未明に之を諭し、其の曲直を正し、夜に入りて之を教誨し、其の根元を察して其の事を捌き、専ら勧善懲悪の道理を弁明し、敢へて刑罰を用ゐずして終に訟へなからしむるに帰せしむ。又、之が為に聊か実業を廃せず。豈に大知と謂はざるべけんや。
小田原侯、此の地再興の事業を先生に任ずと雖も、「一人の力、限りありて、旧復の事は限りなかるべし。」と、吏、二、三輩に命じて野州に至り、其の力を合はせしむ。
宇津家よりも横山周平を出だして協力せしむ。横山周平、性、廉直にして文学あり。先生の道を信ずること厚く、共に一身を抛ち、力を合はせて旧復の道を行ふ。然れども常に多病にして、性来虚弱なり。数年ならずして歿す。先生、終身横山を惜しみ、言、此の人に及ぶ時は必ず涕を流せり。
小田原の吏、某なるもの、性、甚だ剛奸にて、先生の徳行を忌み、其の事業を妨ぐ。先生の処置する所は悉く僻論を以て之を破り、邑中に出づれば、「此の件々を二宮命ぜりと雖も、我、之を許さず。速やかに之を止めよ。若し我が言に従はずんば、必ず汝等を罸せん。」と云ふ。邑民、恐れて先生の指揮に従はず。某、常に先生の功業を破るを以て心とす。故に奸民、之に諂ひ、共に良法の不成を以て愉快とす。加之、良民を退け、侫人を賞し、三邑を横行し、大酒を飲み、口を極めて先生を嘲る。先生、大に之を憂ひ、或いは温言、以て之を諭し、或いは正言、以て之を導き、仕法の妨げ無からしめんと心思を労すと雖も、更に之を用ゐず、益々不平を懐き、再興の道を妨ぐ。先生は日夜、辛苦艱難して興復の事業を挙げんと。某は日夜肝胆を砕き、之を破らんとす。先生、既に某をして善に帰せしめんとして力を尽くすと雖も、如何ともすべからざるに至り、大息して曰はく、「彼、小田原十万石の力を以て如何ともすること能はず。我に属せば必ず善に帰すべしとして此の地に出だせり。若し位格を去り、然る後、我に属せば、我、之を善に導くこと難きに非ず。然るに位格、我が右に居て此の地に来たらしむ。故に我を目下に見て事業を妨げ、下民も亦其の言に随ひ、共に方法を破らん事を謀れり。之を矯めんとして歳月を送らば、我、之が為に業を廃せん。已む事を得ず、彼の好む所に由りて之を処するに如かざるなり。」と。私かに婦人に命じて曰はく、「彼、性、大いに酒を好めり。朝起くるを待ちて酒肴を備へ、彼に告げて曰へ。『子、此の地に至るより以来、実に邑中の為に労すること容易ならず。責めては一盃を飲みて其の労を補ひたまへと、金次郎、妾[1]に命じて、邑中に至れり。』と。酒肴尽くる時は別に備へ置き、又之を出だすべし。終日酒肴を絶つことなかれ。是も亦方法成業の一端なり。必ず過つことなかれ。」と。婦人、其の言のごとくにして美酒、佳肴を出だす。某、大に悦び、再三、之を謝して飲食する、終日息まず。爾来、日々此くのごとくにして一日も酒肴を備へざることなし。某、弥々悦び、其の酒肴に飽く事を楽しみとなし、敢へて邑中に至らず。奸民屢来たるといへども、某、沈酔、言語分明ならず。奸民、之が為に謀りことを合するを得ず。先生、此の時に当たり、専ら邑中に力を尽くし、困民を撫し、荒蕪を開き、凡そ旧復の事業、夜以て日に継ぐ丹誠あり。
数歳の後、某、終に自ら省み、自らを責め、慚愧して前非を改め、興復の道を勉励するに至る。是に於いて其の有益も亦少なからず。実に徳化の然らしむること、感ずべし。
然るに古より以来、凡情の漂ふ所、只目前に在りて遠きを見ることあたはず。眼前の損益を争ひ、人の功を嫉み、善を防ぎ、悪に流るるは小人の常なるが故に、邑中の奸智、佞悪のもの、表は先生の指揮に随ふがごとくにして、内心、之を一事手を下すごとに故障を訴へ、或いは愚民を煽動し、其の事業の破壊に至らんことを謀り、荒蕪を開かんとすれば、「在来の田圃、猶ほ耕耘の力足らず。何を以てか開田を耕すことを得んや。」と之を妨ぐ。加賀、越後、両国の来民を撫し、家を作り、田を開き、器財、農具、衣食を与へ、邑人となせば、氓民と之を賤しめ、之を侮慢し、謂はれなき難条を設け、之を苦しめ、他邦に走らしめ、生国を去る。無頼のものを此の村民となす。故に「早くも又走れり。」と嘲る経界を正さんとすれば、「古来の水帳、既に失ひたり。」と奸人の家に之を隠し置き、之を出ださずして、経界を正すことを得ざらしむ。強者は弱者を凌ぎ、良田を聊かの貸金の為に奪ひ、貧者、終に氓民となる。荒蕪の田圃を開き、私に之を耕し、貢を納めずして其の実りを我が物とし、貢を出だせし田圃は糞培せずして不作せしめ、「土地悪しきが為に斯くのごとし。貢を減じたまはずんば、百姓離散に及ばん。」と訴ふ。里正は細民の無頼を訴へ、細民は里正の私曲を訴ふ。奸人、表に正直を飾り、窃かに愚民を誑かし、種々の出訴を設け、日々陣屋に出でて紛冗動揺せり。此くのごとくすれば、先生、此の事に労し、邑中旧復の実業に暇あらざるを計ればなり。先生、未明に之を諭し、其の曲直を正し、夜に入りて之を教誨し、其の根元を察して其の事を捌き、専ら勧善懲悪の道理を弁明し、敢へて刑罰を用ゐずして終に訟へなからしむるに帰せしむ。又、之が為に聊か実業を廃せず。豈に大知と謂はざるべけんや。
小田原侯、此の地再興の事業を先生に任ずと雖も、「一人の力、限りありて、旧復の事は限りなかるべし。」と、吏、二、三輩に命じて野州に至り、其の力を合はせしむ。
宇津家よりも横山周平を出だして協力せしむ。横山周平、性、廉直にして文学あり。先生の道を信ずること厚く、共に一身を抛ち、力を合はせて旧復の道を行ふ。然れども常に多病にして、性来虚弱なり。数年ならずして歿す。先生、終身横山を惜しみ、言、此の人に及ぶ時は必ず涕を流せり。
小田原の吏、某なるもの、性、甚だ剛奸にて、先生の徳行を忌み、其の事業を妨ぐ。先生の処置する所は悉く僻論を以て之を破り、邑中に出づれば、「此の件々を二宮命ぜりと雖も、我、之を許さず。速やかに之を止めよ。若し我が言に従はずんば、必ず汝等を罸せん。」と云ふ。邑民、恐れて先生の指揮に従はず。某、常に先生の功業を破るを以て心とす。故に奸民、之に諂ひ、共に良法の不成を以て愉快とす。加之、良民を退け、侫人を賞し、三邑を横行し、大酒を飲み、口を極めて先生を嘲る。先生、大に之を憂ひ、或いは温言、以て之を諭し、或いは正言、以て之を導き、仕法の妨げ無からしめんと心思を労すと雖も、更に之を用ゐず、益々不平を懐き、再興の道を妨ぐ。先生は日夜、辛苦艱難して興復の事業を挙げんと。某は日夜肝胆を砕き、之を破らんとす。先生、既に某をして善に帰せしめんとして力を尽くすと雖も、如何ともすべからざるに至り、大息して曰はく、「彼、小田原十万石の力を以て如何ともすること能はず。我に属せば必ず善に帰すべしとして此の地に出だせり。若し位格を去り、然る後、我に属せば、我、之を善に導くこと難きに非ず。然るに位格、我が右に居て此の地に来たらしむ。故に我を目下に見て事業を妨げ、下民も亦其の言に随ひ、共に方法を破らん事を謀れり。之を矯めんとして歳月を送らば、我、之が為に業を廃せん。已む事を得ず、彼の好む所に由りて之を処するに如かざるなり。」と。私かに婦人に命じて曰はく、「彼、性、大いに酒を好めり。朝起くるを待ちて酒肴を備へ、彼に告げて曰へ。『子、此の地に至るより以来、実に邑中の為に労すること容易ならず。責めては一盃を飲みて其の労を補ひたまへと、金次郎、妾[1]に命じて、邑中に至れり。』と。酒肴尽くる時は別に備へ置き、又之を出だすべし。終日酒肴を絶つことなかれ。是も亦方法成業の一端なり。必ず過つことなかれ。」と。婦人、其の言のごとくにして美酒、佳肴を出だす。某、大に悦び、再三、之を謝して飲食する、終日息まず。爾来、日々此くのごとくにして一日も酒肴を備へざることなし。某、弥々悦び、其の酒肴に飽く事を楽しみとなし、敢へて邑中に至らず。奸民屢来たるといへども、某、沈酔、言語分明ならず。奸民、之が為に謀りことを合するを得ず。先生、此の時に当たり、専ら邑中に力を尽くし、困民を撫し、荒蕪を開き、凡そ旧復の事業、夜以て日に継ぐ丹誠あり。
数歳の後、某、終に自ら省み、自らを責め、慚愧して前非を改め、興復の道を勉励するに至る。是に於いて其の有益も亦少なからず。実に徳化の然らしむること、感ずべし。
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「妾」は一人称。
『二宮尊徳全集』第36巻を底本とした。ただし、次の方針に基づき、本サイトの管理人が独自に修訂を施してある。◆漢文以外は、すべて横書きに改めた。◆旧字体は、新字体に改めた。◆仮名遣いは原則として旧仮名遣いのままとしたが、現代的な文語文法に基づき、適宜修正した。(例:飢へ→飢ゑ、全ふ→全う)◆送り仮名、句読点、括弧、改行は、現代的な感覚に即して大幅に改めた。(例:譬ば→譬へば、曰……→曰はく、「……。」) ◆振り仮名は、推測に基づき、適宜施した。◆助動詞および助詞は、仮名に開いた。(例:也→なり、如し→ごとし)◆「ゝ」や「〱」は原則として元の仮名に戻し、「〻」は削った。◆漢文には適宜訓点を補った。
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