『報徳記』第2巻 第2章
先生横田村里正円蔵を教諭す
原文
横田村、衰貧、尤も甚しく、民戸、中古の半ばを存す。古田、荒蕪して原野の如し。貧民、今日の活計術、尽くるに至る。先生、之を恵み、之を撫すること、百計皆悉く至誠ならざるはなし。 里正円蔵なるもの、其の先、由緒ある家筋にて、連綿として此の横田村に相続すること幾百年たるを知らず。細民と共に衰貧せりといへども、未だ活計道なきが如きに至らず、性、才智あるにあらざれども質直にして私曲なし。斯の如き旧家なるが故に、従来の家、頗る破損し、且つ傾きしかば、新たに家作を計れども、家、貧にして作ることを得ず。多年、心を用ゐ、漸く材木を求め、作らんとするに、入費、二十金足らずして、其の望を果たすこと能はず。是に於いて、これを先生に乞ふ。 先生諭して曰はく、「嗚乎、汝の邑、衰廃貧困、既に極まれり。里正たるもの、これが為に痛歎して身を顧るに暇なからんとす。何の暇ありて己れの家作、安居を計るや。過てりと云ふべし。夫れ里正の任たるや、一村の長となり、邑民を進退し、能く之を治め、曲れるものは厚く教へて直からしめ、邪なるものは之を戒めて正しからしめ、惰農なるもの之を励し、貧なるものは之を恵み、身に便りなきものをば之を憐れみ、細民をして法度を守り、汚俗に流れず、専ら勤農して貢を納め、一村の憂ひなからしむるもの、之れ里正の任なり。汝、祖先以来、代々里正となり、一邑の盛衰安危、皆、汝の身にあり。而して下民、怠惰に流れ、衰貧極まり、或いは潰れ、或いは離散し、土地荒蕪し、戸数漸く数十軒のみ。是も亦極貧にして永続の道なく、貢税減少し、地頭の用度足らず。野州広しといへども、斯の如く亡村に等しき村も少なかるべし。今、汝、之を憂ひとなさずんば、何を以て里正の任に勝へんや。一邑、能く治まり、土地開け、細民優かならば、其の功、里正に帰す。土地荒蕪し、細民潰れ、貧困迫り、人気乱るる時は、里正の罪にあらずして誰にか帰せんや。地頭之を憂ひ、数年の力を尽し、旧復の方法を下したまふといへども、其の験しなく、遂に小田原へ歎願せられ、小田原侯より興復の道を尽されしも弥々衰弊に流れ、引き立ての色顕はれず。我れ、命を奉じ、出張せしより以来、廃を興し、民を恵み、昼となく夜となく肝胆を砕き、再復の道を施し、上、君命を辱しめず、下、邑民を安んぜんとするの外、他事なきことは汝も亦明らかに知る所なり。君公の下民を憐れみたまふ高恩は斯の如くにして、邑の里正たる汝、漠然と与からざるものの如くなるは、又何の心ぞや。いやしくも汝、誠の心あらば上君の仁沢を弁へ、旧来、里正として民を憐れみ、撫育するの行ひなく、亡村にも等しき衰廃に陥りし過ちを悔い、己の家産をも減じ、節倹を尽し、細民に先立ち、貧苦を甘んじ、有余を生じ、荒地を開き、細民の飢寒をも救ひ、一邑再復の道に力を尽し、君の憂労を安んじ、里正の本意を達せんとこそ願ふべきに、何ぞや、祖先以来の家を廃し、新に家作を為し、一身の安居のみを計り、猶ほ不足の財を借りて望みを遂げんとするは、過ちの上の過ちにはあらずや。若し君より汝の行ひを見たまはば、何ぞ忠義の心となしたまはん。邑民、之を見ば、誰か怨みを生ぜざらん。誰か其の不可を誹らざらんや。上より不忠の咎めあり、邑民、皆、怨み誹らば、仮令如何なる美屋を作るといへども何を以て其の家に安居することを得んや。今、汝の家、覆らば、居住なきが故に已むを得ざるなり。仮令旧家にて損じ傾くといへども、倒るるにはあらず。何の居住しがたきことあらん。細民の家を見よ。一日も風雨を支ふることあたはざるものあり。豈に汝の家の類ひならんや。然れども我に不足の金を借らんと求めざれば、我、其の不可を教ふるに暇あらず。我に求むるが故に、其の過ちを諭すなり。汝、我が言を是なりとせば、速やかにそれ之を止めよ。而して我に借らずして、仮に二十金を借りたりとして、今より五年の間に返金せよ。若し家作を止め、平生の処にて返金を難しとする時は、多分の費用を以て家を作り、其の後の返金は難き事必せり。返金の能はざるを知りて借るは、是れ我を欺くなり。家を作りて、猶ほ返金容易からば、作らずして返金する、何の難きことかあらん。試みに借らずして返納のみせよ。然する時は、汝、自ら邑民を救ひ、廃蕪を興すこと能はずと雖も、我、興し与ふるが故に、汝、力を添へて興するに当たれり。里正たるものは細民に先立ち、艱難を嘗むべきの任なるが故に、細民安んずることを得ば、其の後に汝の望みも為し与ふべし。然らば邑民の怨望、何に由りて生ぜん。誰か汝の行ひを非とせんや。若し此の言に随はずんば、人望を失ひ、怨言起こり、一家を保つこと難かるべし」と。 円蔵、大いに感激し、速やかに家作を止め、先生の教へに随ひ、借らずして毎年返金を納め、猶ほ業を勤めて利足をも納め、加之、邸内の竹木を伐り、之を鬻ぎて価を納む。 後、横田村、全く興復し、細民恩沢に浴し、一民も居住を安んぜざるものなきに至り、采邑四千石中に最第一の家を作り、之を円蔵に与ふ。入費、百有余金。里正、大に悦び、邑民も亦共に悦びて聊も怨望の心なきものは、始め、円蔵借らざるの返金を立てたる殊勝の行ひあるが故なり。先生、又、新たに家を作り、円蔵の子弟二人に与へ、分家二軒を立つ。円蔵、感歎すること限りなし。噫、里正、一度先生の教へに従ひて不朽の大幸を得たり。先生、庸夫を導き、感発せしめ、道を踏み、過ちを改むるに至りて、大いに仁恵を施し、諸人をして悉く其の処を安んぜしむること、往々斯の如し。
『二宮尊徳全集』第36巻を底本とした。ただし、次の方針に基づき、本サイトの管理人が独自に修訂を施してある。◆漢文以外は、すべて横書きに改めた。◆旧字体は、新字体に改めた。◆仮名遣いは原則として旧仮名遣いのままとしたが、現代的な文語文法に基づき、適宜修正した。(例:飢へ→飢ゑ、全ふ→全う)◆送り仮名、句読点、括弧、改行は、現代的な感覚に即して大幅に改めた。(例:譬ば→譬へば、曰……→曰はく、「……。」) ◆振り仮名は、推測に基づき、適宜施した。◆助動詞および助詞は、仮名に開いた。(例:也→なり、如し→ごとし)◆「ゝ」や「〱」は原則として元の仮名に戻し、「〻」は削った。◆漢文には適宜訓点を補った。
前のページ
次のページ