『報徳記』第2巻 第4章
凶年に当り先生厚く救荒の道を行ふ
原文
于時天保四癸己年初夏、時気不順にして霖雨止まず。先生、或る時、茄子を食するに其の味、常に異なり。恰も季秋の茄子の如し。箸を投じて歎じて曰はく、「今、時、初夏に当たれり。然して此の物、既に季秋の味をなすこと、豈に唯ならんや。是を以て考ふるに、陽発の気、薄くして、陰気、既に盛なり。何を以てか米穀豊熟することを得ん。予め非常に備へずんば、百姓、飢渇の憂ひに罹はんか。」是に於いて、三邑の民に令して曰はく、「今年、五穀熟作を得ず。予め凶荒の備へを為すべし。一戸毎に畠一反歩、其の貢税を免すべし[註1]。速やかに稗を蒔き、飢渇を免るるの種とせよ。忽せにすべからず」と。諸民、之を聞き、笑ひて曰はく、「先生、明知ありと雖も、何ぞ予め年の豊凶を知らんや。戸毎に一反歩の稗を作らば、三邑、夥多の稗なるべし。何れの処に之を貯めん。且つ稗なるもの、旧来、貧苦に迫れりといへども未だ之を食はず。今、之を作りたりとも食ふことを得ず。然らば無用のものと云ふべし。仮令人に与ふるといへども、誰か之を受けん。詮なきことを令するものかな」と嘲りたり。「然れども貢を免し、作らしむ。之を背かば、必ず令を用ゐざるの咎めあらん」と、已むことを得ずして俄かに稗を作り、「無益の事をなせり」と怨望する者あるに至る[註2]。 然るに、盛夏といへども降雨多くして冷気行はれ、終に凶歳となり、関東、奥羽の飢民、枚挙すべからず[註3]。 此の時に至り、三邑の民、稗を以て食の不足を補ひ、一民飢に及ぶものなし。始めて先生の明鑑、予め凶荒を計り、下民を安んずるの深意を知り、我が知の浅々たるを悟り、曽て無益の事となし、活命の令を嘲きたるを悔い、大いに其の徳を称す。 翌午年に至り、再び令を下して曰はく、「天運、数ありて、饑饉となること、遅くして五、六十年。早くして三、四十年。必ず凶荒至れり。天明度以来を考ふるに、饑饉来たるべし。去年の凶荒は甚しからず。未だ其の数に当たるに足らず。必ず今一度、大凶至らんこと、近年にあり。汝等、謹みて之に備へよ。今年より三年の間、畠の貢を免すこと、去年の如くすべし。家々、心を用ゐ、稗を植ゑて予め飢渇の憂ひを免るべし。若し怠るものあらば、里正、之を察し、我に告げよ」と命ず。三邑、去年の前見、明らかなるに驚き、且つ飢渇の害を免れたれば、謹みて命に従ひ、糞養を尽して之を作れり。此の如くすること三年。三邑の稗、数千石の備へあり。 同七丙申年に至り、五月より八月まで、冷気、雨天、盛夏と雖も、北風の寒きこと膚を切るが如し。常に衣を重ねたり。年、大いに饑う。実に天明凶年よりも甚しき処あり。関八州、奥羽、餓民夥多、餓莩[註4]道路に横たはり、行人、潜然として面を掩ひて過ぐるに至る。此の時に当たり、桜町三邑の民のみ此の憂ひを免る。先生、三邑を戸毎に廻り、無難のもの、中難のもの、極難のもの、三段に分かち、老少男女を撰まず、一人雑穀を交へ、五苞づつとなし、其の数に満たざる者は之を補ひ、之を与へ、一戸五人なれば二十五苞、十人なれば五十苞、十五人なれば七十五苞を備へたり。貧者は、豊年猶ほ此の如く豊かなることを得ず。先生諭して曰はく、「今年、饑饉の為に飢渇、死亡を免れざるもの幾万人。誠に悲痛の至りに堪へざるなり。然るに汝等、是の如く処置するが故に一民も飢渇の憂ひなく、平年の如し。之に安んじ、安坐して食する時は、冥罰の程恐るべし。汝等、世人の飢渇を察し、朝は未明に起きて縄を索ひ、日々田圃に力を尽し、明年培養の備へを厚くし、夜は又縄をなひ、筵を打ち、来歳十分の作を得ば、毎家、弥永続の根本となり、天災変じて大幸となるべし。必ず怠るべからず」と教ふ。三邑の民、大いに感動し、専ら家業を勤め、又一段の福を得たりと云ふ。
『二宮尊徳全集』第36巻を底本とした。ただし、次の方針に基づき、本サイトの管理人が独自に修訂を施してある。◆漢文以外は、すべて横書きに改めた。◆旧字体は、新字体に改めた。◆仮名遣いは原則として旧仮名遣いのままとしたが、現代的な文語文法に基づき、適宜修正した。(例:飢へ→飢ゑ、全ふ→全う)◆送り仮名、句読点、括弧、改行は、現代的な感覚に即して大幅に改めた。(例:譬ば→譬へば、曰……→曰はく、「……。」) ◆振り仮名は、推測に基づき、適宜施した。◆助動詞および助詞は、仮名に開いた。(例:也→なり、如し→ごとし)◆「ゝ」や「〱」は原則として元の仮名に戻し、「〻」は削った。◆漢文には適宜訓点を補った。
前のページ
次のページ