『報徳記』第2巻 第6章
物井村無頼の農夫を導き善に帰せしむ
原文
物井村農夫、某なるもの、其の性、無頼にして大酒を好み、博奕に耽り、利欲に心を奪はれ、人と争ひ、家業を怠り、貧困極まれり。誠に諭すべからざるの悪人なり。 一時、先生、陣屋に使ふ所の僕[註1]をして物井村百姓、某の家に使はす。途中、此の者の厠に往く。腐柱傾き、薦を垂れて壁に代へ、竹を以て其の仆れんとするを支ふ。僕、卒忽として此の竹に触れ、忽ち厠傾覆せり。某なるもの、之を見て大いに怒り、「何ものなれば我が便所を破れるや。不埒のものなり」と罵る。僕、謝して曰はく、「某、二宮君の僕にして、此の邑に使ひせり。子の便所を借り、過ちて之を倒せり。許したまはれ」と云ふ。某、弥怒り、「汝、二宮の僕なるか。然らば猶ほ以て免し難し。人の便所を破却せるは乱暴狼藉と云ふべし。思ひ知らせん。」と六尺棒を挙げて之を打たんとす。僕、驚き走り、陣屋に帰る。其の跡を追ひ、逃さじと大音に呼ばはり、陣屋に来たり、「我が便所を破却せし狼藉ものを出だすべし」と詈る。衆人、来会して之を諭し、其の過を詫ぶると雖も弥憤り、彼是の別なく棒を振ひ打ちて掛かる。先生、此の動揺を聞き、何の故と問ふ。或る者、答へて曰はく云々。先生曰はく、「其の者、我、面会せん。此処へ連れ来たるべし」と。是に於いて、先生の前に出でたり。怒気益盛にして曰はく、「某の便所、貴君の僕に破られたり。農夫、便所なくして一日も農業のなるべきか。無道の者をして邑民の便所を乱暴せしむること、何の謂れかある。我に彼のものを渡さるべし。十分に此の憤りを散ぜん」と云ふ。先生、従容として問ひて曰はく、「汝の便所を破れるは僕の不届なり。然れども彼、何ぞ意有りて之を破らんや。将に倒れんとするの便所なるが故に、過ちて倒せしならん。便所のみ此の如くなるには有るまじ。本屋も定めて破損有るべし。如何ん。」某曰はく、「元来、貧困なるを以て本屋も甚だ大破なれども之を修復するを得ず。斯の如き貧人、便所を破られたれば憤恨に堪へず」と。先生曰はく、「我が僕、汝の便所を破れり。速やかに之を普請し与へん。其の序でを以て家屋をも新たに作り与ふべし。如何。」某、愕然として驚き、怒気、忽ち消除し、拝伏して曰はく、「君、不肖の某を憐れみ、新たに家作を給まらんと。何の幸ひか之に過ぎん。」先生曰はく、「汝、家に帰り、大破の家を除き、地形の手配を為すべし。我、速やかに工に命じて家作を与へん。然らば僕に恨はなかるべし。僕が破りし縁を以て此の幸ひに及べり。然らば僕も亦恩人ならん」と云ひて笑ふ。某、大いに慚愧して家に帰れり。是より先生、自ら其の所に臨んで指揮し、大木良材を以て長八間、横三間の新家を作り、外に小屋、便所、何れも作為し、之を与へたり。某、大いに悦び、前非を悔ゆること骨髄に徹し、其の恩を感ずること甚だ深し。一生の間、人々に此の事を語りて涕を流せり。自ら大酒を戒め、博奕を止め、農業に力を尽し、数年の窮乏を免れ、富優の良民と化せり。三邑、之を聞き、之を見て、大いに感じ、先生の寛仁なることを唱へ、汚風一変し、勧農の道、行はれたり。先生の其の人物に応じ、恩沢を布き、善に導くこと往々此の如しと云ふ。 奥州標葉郡代官、某なる者、此の事を聞き、大いに嘲りて曰はく、「二宮の道、大道に非ずして小道と云ふべし。悪人に大恩を与ふる時は何を以てか勧善懲悪の道を行はんや。是れ一人に行ふべくして万人を以て行ふべからざるなり。聖賢の道は、万人に行ふべきの大道なり。故に此の如き小術を用ゐるは聖人の道を知らざるが故なり」と云ふ。或る人、之を聞きて「高論なり」と云ひて大いに感ぜり。後、某、博奕者に金五両を貸して其の行ひを改めしめ、美名を取れり。是れ陽に嘲り、陰に先生の行ひを真似たりと云ふ。 高慶[註2]曰「固哉、郡宰之言也。夫聖人於民、使其去旧染之汚、復固有之善如此而已矣。然而其去汚復善、豈無変通之略哉。且夫導人者、先之以教、不従継之以刑。然刑也者、聖人藉以為消悪之具而刑期于無刑。非用刑之善者乎。至於物井村農夫、先生知其姦猾未可遽施以教。故且懐之以恩、使其有所感観而顧化[註3]、化一悪、而三邑之民皆帰於善。非大道而何。郡宰浅学固不足以知先生。至或者以其言為善。亦不足論也。」
『二宮尊徳全集』第36巻を底本とした。ただし、次の方針に基づき、本サイトの管理人が独自に修訂を施してある。◆漢文以外は、すべて横書きに改めた。◆旧字体は、新字体に改めた。◆仮名遣いは原則として旧仮名遣いのままとしたが、現代的な文語文法に基づき、適宜修正した。(例:飢へ→飢ゑ、全ふ→全う)◆送り仮名、句読点、括弧、改行は、現代的な感覚に即して大幅に改めた。(例:譬ば→譬へば、曰……→曰はく、「……。」) ◆振り仮名は、推測に基づき、適宜施した。◆助動詞および助詞は、仮名に開いた。(例:也→なり、如し→ごとし)◆「ゝ」や「〱」は原則として元の仮名に戻し、「〻」は削った。◆漢文には適宜訓点を補った。
前のページ
次のページ