『報徳記』第2巻 第7章
先生辻門井二邑の里正を教諭す
原文
常州真壁郡辻村里正を源左衛門、同郡門井村里正を藤蔵と云ふ。二村共に旗下斎藤某の采邑なり。斎藤氏、経済不如意にして負債多く、采邑に命じて今年に来年の租税を先納せしめ、加之、時々用金と称し、下民の財を取ること度なし。之が為に二邑の民、困難貧苦に堪へずして氓民となり、戸数減少、土地荒蕪し、衰貧極まれり。里正、数々憐愍を地頭に請ふと雖も許さず。豊年尚ほ菜色[註1]あり。隣境、之を見て、為に悲歎止まず。里正、細民を倒して君の求めに応ずるに忍びず。自財を以て之を補ふと雖も地頭の費用、弥足らずして饜くなきの求め止む時なし。 源左衛門藤蔵、大いに君の不仁、無慈悲を怨み、語りて曰はく、「里正なるものは邑民を安んずるを以て主とす。故に屢細民の為に憐愍を請ふ。然れども地頭、不仁にして、二邑に取ること限りなし。安くんぞ衰村貧民の米金を以て限りなきの求めに応ずることを得んや。我等、細民と共に亡滅に及ばんこと遠きにあらず。然るに二宮先生、三邑の衰廃を起こし、其の民を撫育する事、父母の子を恵むが如し。速やかに桜町に往きて物井の民とならば、後栄疑ひあるべからず。早く苛酷の苦を免れ、仁人の民となるには如かざるなり」と。是に於て二人俱に桜町に来たり、無道の下に立ち難きを歎き、物井の民たらん事を乞ふ。先生、深く之を愍れみ、二人を教へて曰はく、「汝等、今日の不幸は実に憐れむべしと雖も祖先以来居住の地を去り、此の土の民たらんことを求むるに至りては大いに道を失ひたり。今、我が臣民たるものの道を教へん。凡そ、上、君となり、下、臣民となるもの、本来一物にして二物にはあらず。猶ほ一木の根幹、枝葉、相離れざるが如し。故に本根朽つる時は枝葉独り全からず。枝葉枯るる時は本根も亦全き事を得ず。汝等、数百年来、君となり、民となり、平穏無事に相続せしは一朝一夕の故にあらず。祖先以来の主恩を顧みる時は、それ大となすか、小となすか。果して大ならば、汝一世の力を余さず、之に報ずると雖も、何を以て百分の一も報ずる事を得ん。然るに今、怨望の心を懐くものは、他なし、君は君にして民は自ら民なりとし、利を主として義を忘れ、財のみを見て恩を顧みざるが為なり。是の故に地頭の艱難に当たり、君の憂ひを憂ひとせず、唯だ其の求責を遁れんことを謀る。豈に是れ難に当りて臣民の義を尽すの道ならんや。且つ万物、皆、悉く盛衰あり、天地間、森羅万象限りなしと雖も、一物も自然の盛衰存亡を免るるものなし。国に盛衰あり、家に盛衰あり、人に盛衰あり。是故に盛んなるものは必ず衰へ、存するものは必ず亡じ[註2]、生あるものは必ず死す。是れ天地自然の道なり。然らば則ち汝の君家、何ぞ独り盛衰なき事を得ん。汝の邑のみ何ぞ盛衰なからん。汝の家のみ何を以て盛衰を免れんや。汝の君家、以前必ず盛ならん。故に今、衰ふべきの時運至り、用度足らず。是の故に已むを得ず、采邑に取りて不足を補ふ。地頭の盛んなる時は采邑[註3]も亦盛んなり。地頭衰ふる時は邑も亦衰ふ。君富む時は、恩沢、下に及び、君窮する時は、下、其の憂ひを受くるもの、猶ほ枝葉枯槁して根も亦朽つるが如し。故に忠臣良民は君の艱難に当たりては身命を拠ち、其の憂ひを除き、祖先歴代の高恩に報いんとす。力足らざれば死して後止む。米粟、家財、何ぞ言ふに足らん。今、君、恵憐の心薄く、多欲にして貪るといへども其の采邑に求むるのみ。故に采邑の物を取り尽くすに及びては其の求め、必ず止まん事、薪尽きて火の滅するが如し。汝等、時運を知らず、又、祖先以来受くる所の大恩を顧みて之を報ぜんとするの心なく、薪を抱きて火に向かひ、火の滅するを求むるが如し。早く抱く所の薪を火中に投ぜば、薪尽きて火燃ゆる所なく、君の求め、止まん事、何の疑ひかあらん。是の故に家財、田圃、一物をも残さず、君に奉じて其の不足を補ふべし。然れども君の所行を怨むるの心ありて之を出だす時は、是れ誠心の行ひに非ず。従来の報恩を主とし、君家の為めのみに計り、所有の田圃、家屋、器財、悉く之を鬻ぐに、其の価卑き時は君の益少なく、価高き時は君の益多し。故に心を尽くし、高価に鬻ぐべし。是れ、主家の衰ふる時に当たり、正に臣民の行ふべき常道なり。家の存亡、必ず自然の数ありて逃るべからず。汝等の家、亡ぶる時至れり。然れば仮令道理を知らず、知計を以て一旦君の求めを免たりと雖も、子孫、無頼の者出づるに及びて必ず家を失ふべし。子孫無頼の為に失はんよりは、君の艱難の一助となし、良民報恩の道を行ふべし。苟も是の如くならば、神明も之を感じ、人、之を憐み、後、必ず廃家再興の時至らん。是れ亦自然の理なり。若し此の善行を為さずして自亡を待つは、君と財を争ひ、家を亡ぼし、恩を知らざる無道のものとなり、君も亦、下民を虐するの汚名を顕すに至るべし。誠に歎ずべきの至りにあらずや。汝等、夫れ此の二者の内、何れを是とし、何れを非とするや。若し此の言を是とせば、速やかに君に奉じ、然る後、地頭へ歎願すべし。其の言に曰はく、『目今、君家の艱難に当たり、報恩の為に力を尽くし、之を補ひ、君の苦心を安んぜん事を念願すと雖も、貧民の微力に能はず。聊か報恩の一端にも当たるに足らずと雖も、衣類、家財、田地に至るまで、余す所なく之を鬻ぎ、猶ほ些少たりとも価多くして君の小補あらん事を願ひ、四方に奔走し、以て高価に販ぎ、之を奉ず。然れども君の艱苦、何ぞ此の微金を以て補ふに足らん。某等、二村の里正として諸民に先んじ、君家の為に家株を廃して之を献ず。諸民も之に傚ひ、稍々家を廃して献ぜんこと疑ひなし。君ありて民あり。民ありて君も亦、安んじたまふ。故に二邑の民、悉く退散するに至りては、田圃荒蕪し、租税出づる所なく、君家の禍ひ、益深きに至らんか。是れ某等の悲歎止み難き所なり。仰ぎ願くは君の賢明を以て後栄の道を慮り、先君への孝道を全くしたまはば、某等の大喜、豈に之に加ふるものあらんや。今、一家を抛ち、君命を奉ず。明日より道路に立たんか。素より某等の甘んずる所なり。然して君、若し某等を憐み、采邑中の居住を許したまはば幸甚なり。極窮、飢寒を免れ難しと雖も、数百年来、世々、君恩に浴し、相続せしを以て拳々として故郷を去るに忍びず。是故に邑人の家を借り、其の余田を耕して以て永く君の采邑に居住せんことを願ふなり』と。地頭、之れを許さば、君の善心、自づから発動して永安の道も生ぜん。然らば汝等も邑の余田を耕し、或いは荒地を開き、心力を尽して稼穡すべし。必ず天の恵みを得て、以て再び相続の道を生ぜん。能く勉め、能く慎み、弥々以て君恩を忘るべからず。若し斯の如く歎願すと雖も、君許したまはざる時は、如何にせん。君民の道、既に尽きたり。是に於いて已むことを得ずんば、妻子と俱に当邑に来たれ。元拾石を所有せば拾石の民となし、五拾石を所有せば五拾石の民となし、百石の所有なれば必ず百石の田圃を与へ、以前有する所の家財に至るまで悉く之を与ふべし。夫れ天下の人民、各其の主に事へて田を耕し、租を納め、一家を経営す。其の主君、仮令道なしと雖も、下として之を怨むべきの道なし。然るに怨心を発し、家財を持ちて来るものを容れ、此の地の氏と為す時は、其の地頭へ対して信義の道、立つべからず。且つ衰運に会し、将に亡びんとするの原因を抱きて以て来る者は、仮令如何なる多福を与ふと雖も原因尽きず。再び災害、並び至り、廃亡に及ぶこと、天理自然にして疑ひなし。故に我は斯の如きものを受けざるなり。然して地頭の憂ひを憂ひ、報恩の為に良民の道を尽し、一家一物をも余さず、君に奉じ、一身を容るるの地なくして来たるに及びては、将に亡びんとするの因縁、爰に滅す。故に新たに幸福を与ふる時は、必ず再栄、疑ひなし。其の主人も亦、是の如き良民を廃棄し、采邑の居住をも許さざる時は、此の地の民と為すと雖も、何の子細か有らん。汝等、此の道理を了解し、断然私心を去り、此の道を行ふべし。若し我が言を疑ひ、行ふことあたはずして、主君と家財を争ひ、君を怨みて己を是とし、禍ひを免れんことを謀らば、数年を待たずして必ず亡びん。汝、夫れ之を疑惑することなかれ」と。 二人、之を聞きて感動し、「其の教へに従はん」と云ふ。後、源左衛門は私心去り難く、地頭を怨み、財を出ださず、地頭、之を放逐す。終に家を失ひ、他邦に走る。藤蔵、此の教へを尊信して、君命至るあらば、時刻を移さず、残らず家株を奉ぜんとす。時に某なる者、用金督促の命を受けて門井村に至る。藤蔵の誠意を聞き、命を伝へずして帰る。後、再び至ると雖も、命を発することを得ず。一家亡滅の禍ひを免れ、今に至るまで一家を保全するに至る。 或る人、先生に問ひて曰はく、「先生、其の未発を察し、教へを下し、毫毛の差ひなきものは何ぞや。」先生曰はく、「夫れ大風の興るや、木に触れて以て動揺止まず。其の木を伐るに及びては暴風と雖も之に触るることあたはざるは自然にあらずや。易曰同声相応同気相求水流湿火就燥と。主人、多欲にして其の求め饜くことなし。源左衛門、我が言を用ゐず、欲を以て之に応ず。故に亡滅を免れず。藤蔵、欲を伐りて更に私念なし。故に多欲も之に触るること能はずして全き事を得たり。自然の理、未発、已発を論ぜずして、自ら明らかなり。何の差ふことか、之れ有らんや。」
『二宮尊徳全集』第36巻を底本とした。ただし、次の方針に基づき、本サイトの管理人が独自に修訂を施してある。◆漢文以外は、すべて横書きに改めた。◆旧字体は、新字体に改めた。◆仮名遣いは原則として旧仮名遣いのままとしたが、現代的な文語文法に基づき、適宜修正した。(例:飢へ→飢ゑ、全ふ→全う)◆送り仮名、句読点、括弧、改行は、現代的な感覚に即して大幅に改めた。(例:譬ば→譬へば、曰……→曰はく、「……。」) ◆振り仮名は、推測に基づき、適宜施した。◆助動詞および助詞は、仮名に開いた。(例:也→なり、如し→ごとし)◆「ゝ」や「〱」は原則として元の仮名に戻し、「〻」は削った。◆漢文には適宜訓点を補った。
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