『二宮翁夜話』第1巻 第26章
翁曰はく善悪の論甚だむづかし…
原文
翁曰はく、「善悪の論、甚だむづかし。本来を論ずれば、善も無し。悪もなし。善と云ひて分かつ故に、悪と云ふ物、出来るなり。元、人身の私[1]より成れる物にて、人道上の物なり。故に、人なければ善悪なし。人ありて後に善悪はあるなり。故に人は荒蕪を開くを善とし、田畑を荒らすを悪となせども、猪、鹿の方にては、開拓を悪とし、荒らすを善とするなるべし。世法、盗みを悪とすれども、盗み中間にては、盗みを善とし、是を制する者を悪とするならん。然れば、如何なる物、是れ善ぞ。如何なる物、是れ悪ぞ。此の理、明弁し難し。
此の理の尤も見安きは遠近なり。遠近と云ふも、善悪と云ふも理は同じ。譬へば杭二本を作り、一本には『遠』と記し、一本には『近』と記し、此の二本を渡して『此の杭を汝が身より遠き所と近き所と二所に立つべし』と云ひ付くる時は、速やかに分かるなり。予が歌に『見渡せば遠き近きはなかりけりおのれおのれが住処にぞある』と。此の歌、『善きもあしきもなかりけり』といふ時は、人身に切なる故に分からず。遠近は人身に切ならざるが故によく分かるなり。工事に曲直を望むも、余り目に近過ぐる時は見えぬ物なり。さりとて遠過ぎても、又眼力及ばぬ物なり。古語に、『遠山、木なし。遠海、波なし[2]。』といへるがごとし。故に我が身に疎き遠近に移して諭すなり。夫れ遠近は、己が居処、先づ定まりて後に遠近あるなり。居所定まらざれば遠近必ずなし。『大坂遠し』といはば、関東の人なるべし。『関東遠し』といはば、上方の人なるべし。
禍福、吉凶、是非、得失、皆是に同じ。禍福も一つなり。善悪も一つなり。得失も一つ也。元一つなる物の半ばを善とすれば、其の半ばは必ず悪なり。然るに其の半ばに悪なからむ事を願ふ、是れ成り難き事を願ふなり。夫れ人、生まれたるを喜べば、死の悲しみは随ひて離れず。咲きたる花の必ずちるに同じ。生じたる草の必ず枯るるにおなじ。
涅槃経に此の譬へあり。或る人の家に、容貌、美麗端正なる婦人、入り来たる。主人、『如何なる御人ぞ』と問ふ。婦人、答へて曰はく、『我は功徳天なり。我が至る所、吉祥、福徳、無量なり。』主人、悦んで請じ入る。婦人曰はく、『我に随従の婦、一人あり。必ず跡より来たる。是をも請ずべし』と。主人、諾す。時に一女来たる。容貌、醜陋にして至りて見悪し。『如何なる人ぞ』と問ふ。此の女、答へて曰はく、『我は黒闇天なり。我が至る処、不祥、災害ある、無限なり』と。主人、是を聞き、大いに怒り、『速やかに帰り去れ』といへば、此の女曰はく、『前に来たれる功徳天は我が姉なり。暫くも離るる事あたはず。姉を止めば、我をも止めよ。我をいださば、姉をも出だせ』と云ふ。主人、暫く考へて二人ともに出だしやりければ、二人、連れ立ちて出で行きけりと云ふ事ありと聞けり。是れ生者必滅、会者定離の譬へなり。
死生は勿論、禍福、吉凶、損益、得失、皆同じ。元、禍と福と同体にして一円なり。吉と凶と兄弟にして一円なり。百事、皆同じ。只今も其の通り、通勤する時は『近くてよい』といひ、火事だと云ふと『遠くてよかりし』と云ふなり。是を以てしるべし。」
此の理の尤も見安きは遠近なり。遠近と云ふも、善悪と云ふも理は同じ。譬へば杭二本を作り、一本には『遠』と記し、一本には『近』と記し、此の二本を渡して『此の杭を汝が身より遠き所と近き所と二所に立つべし』と云ひ付くる時は、速やかに分かるなり。予が歌に『見渡せば遠き近きはなかりけりおのれおのれが住処にぞある』と。此の歌、『善きもあしきもなかりけり』といふ時は、人身に切なる故に分からず。遠近は人身に切ならざるが故によく分かるなり。工事に曲直を望むも、余り目に近過ぐる時は見えぬ物なり。さりとて遠過ぎても、又眼力及ばぬ物なり。古語に、『遠山、木なし。遠海、波なし[2]。』といへるがごとし。故に我が身に疎き遠近に移して諭すなり。夫れ遠近は、己が居処、先づ定まりて後に遠近あるなり。居所定まらざれば遠近必ずなし。『大坂遠し』といはば、関東の人なるべし。『関東遠し』といはば、上方の人なるべし。
禍福、吉凶、是非、得失、皆是に同じ。禍福も一つなり。善悪も一つなり。得失も一つ也。元一つなる物の半ばを善とすれば、其の半ばは必ず悪なり。然るに其の半ばに悪なからむ事を願ふ、是れ成り難き事を願ふなり。夫れ人、生まれたるを喜べば、死の悲しみは随ひて離れず。咲きたる花の必ずちるに同じ。生じたる草の必ず枯るるにおなじ。
涅槃経に此の譬へあり。或る人の家に、容貌、美麗端正なる婦人、入り来たる。主人、『如何なる御人ぞ』と問ふ。婦人、答へて曰はく、『我は功徳天なり。我が至る所、吉祥、福徳、無量なり。』主人、悦んで請じ入る。婦人曰はく、『我に随従の婦、一人あり。必ず跡より来たる。是をも請ずべし』と。主人、諾す。時に一女来たる。容貌、醜陋にして至りて見悪し。『如何なる人ぞ』と問ふ。此の女、答へて曰はく、『我は黒闇天なり。我が至る処、不祥、災害ある、無限なり』と。主人、是を聞き、大いに怒り、『速やかに帰り去れ』といへば、此の女曰はく、『前に来たれる功徳天は我が姉なり。暫くも離るる事あたはず。姉を止めば、我をも止めよ。我をいださば、姉をも出だせ』と云ふ。主人、暫く考へて二人ともに出だしやりければ、二人、連れ立ちて出で行きけりと云ふ事ありと聞けり。是れ生者必滅、会者定離の譬へなり。
死生は勿論、禍福、吉凶、損益、得失、皆同じ。元、禍と福と同体にして一円なり。吉と凶と兄弟にして一円なり。百事、皆同じ。只今も其の通り、通勤する時は『近くてよい』といひ、火事だと云ふと『遠くてよかりし』と云ふなり。是を以てしるべし。」
[1]
「私」は「主観」の意。
[2]
「遠山、木なし。遠海、波なし」とは、王維『画学秘訣』(『山水論』とも)または荊浩『画山水賦』に見える「遠人無目、遠樹無枝、遠山無石、隠々如眉、遠水無波、高与雲斉」を踏まえた言葉。
『二宮尊徳全集』第36巻を底本とした。ただし、次の方針に基づき、本サイトの管理人が独自に修訂を施してある。◆漢文以外は、すべて横書きに改めた。◆旧字体は、新字体に改めた。◆仮名遣いは原則として旧仮名遣いのままとしたが、現代的な文語文法に基づき、適宜修正した。(例:飢へ→飢ゑ、全ふ→全う)◆送り仮名、句読点、括弧、改行は、現代的な感覚に即して大幅に改めた。(例:譬ば→譬へば、曰……→曰はく、「……。」) ◆振り仮名は、推測に基づき、適宜施した。◆助動詞および助詞は、仮名に開いた。(例:也→なり、如し→ごとし)◆「ゝ」や「〱」は原則として元の仮名に戻し、「〻」は削った。◆漢文には適宜訓点を補った。
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